安全保障の新たなフロンティア:デジタル影響工作を読み解く
ハイブリッド脅威
現代の安全保障において、サイバー脅威はますます複雑化しており、領域横断的な「ハイブリッド脅威」の一部として注目されている。ハイブリッド脅威の一例として、2014年のクリミア併合におけるロシアが行った「ハイブリッド戦」が知られている。ロシアは軍事的な進攻に加えて、サイバー攻撃や情報戦を駆使して、国際社会の反応を操作したとされている。
しかしながら、「ハイブリッド脅威」とは、軍事的な攻撃とサイバー攻撃だけでなく、情報操作、経済的圧力、政治的な影響力行使など、多岐にわたる手段を用いてターゲットの安定を揺るがすより広範な脅威概念である。欧州NATOハイブリッドCOE※1では、ハイブリッド脅威について図1に示すような概念モデルを提唱している。軍事、サイバー攻撃や情報戦に加えて、外交、政治、文化、社会、法律、宇宙、行政、インフラ、経済、諜報などといったより多くの領域に跨ぎ、それらを複合的に駆使して、ターゲットの優位性を貶める。
ハイブリッド脅威の観点から見れば、現在我々が目にしているさまざまな脅威は、より大きな枠組みにおいて形成される脅威の顕在化している一つのもしくは一部に過ぎない。
脅威アクターは、ターゲットに対し、図1に示した、複数のドメインを跨ぐ形で「干渉」(interference)を行う。しかしながら、脅威を脅威と認識させない。それゆえ、ターゲットは状況認識の共有が困難となり、対抗措置がとれない。さらには、ターゲットは、脅威アクターにとって有利な意思決定を誘発されてしまう。
デジタル影響工作の事例とその考え方
次に、ハイブリッド脅威の一つ、デジタル影響工作の考え方を整理する。ここでは、影響工作を、「国家・非国家間での競争(戦い)における情報戦の一種で、競争相手国の意思決定に影響を与え、ターゲットの行動の変容を促す一連の行為」とする。その上で、SNS、AI、および、アドテクを戦術的手段として用いる影響工作を、デジタル影響工作とする。
デジタル影響工作において、SNS、AI、および、アドテクの役割は大きい。SNSは、アテンションエコノミー※2に基づくので、SNSプラットフォームには、情報の拡散力にだけでなく、利用者の注意を惹きつける仕組みがビルトインされている。このことが、それまでのメディア、すなわち、新聞、ラジオ、映画、テレビとの違いである。また、アドテクの代表には、マイクロターゲッティング広告※3がある。マイクロターゲッティング広告は、高い宣伝効果を持つだけでなく、ターゲット以外に顕在化することがないステルス性を持つ。さらに、昨今の生成AIの台頭により、さまざま偽コンテンツの生成の増加が想定される。それ以上に注目すべきAI技術として、ターゲットの心理モデルの悪用である。AIによる心理モデルにより、マニュピュレート、すなわち、ターゲットの行動変容を促すことを可能とする。
行動変容手法:反射統制
つぎに、反射統制(Reflexive Control)という概念を用いて、ターゲットの行動変容を促す方法について説明する。反射統制とは、1960年代、旧ソビエト連邦でスタートした、影響工作の理論である。ターゲットが特定の状況をどのように評価し、どのような行動を取るかを予測し、その行動を自分に有利な方向に導くための情報操作である。具体的には、敵の認識や意思決定に影響を与えるために、虚偽の情報や心理的な操作を用いる(図2参照)。
たとえば、ルビンの壺。これは、一つの画像を異なる視点から見ることで、異なる認識を引き出すことができる例として知られている。ルビンの壺の画像は、「二つの人の顔」と「壺」の両方の解釈が可能であり、視点を変えることでその認識も変わる。すなわち、影響工作では、このような人間の気質を利用してターゲットの「認識を変えさせること」で、意思決定や判断にも影響を与え、最終的には行動変容を促す力を生み出す。
このように、影響工作では、偽情報・誤情報を提供するだけでなく、「考え方を変えさせる情報」を提供することにより、ターゲットの行動変容を促す。
「核の冬」は、ナラティブ!?
影響工作では、ナラティブを用いて世論や政策決定に影響を与えることがある。ここで、ナラティブは、必ずしも現実に即しているわけではなく、政治的な意図を含み、「考え方を変えさせる情報」を提供する手段の一つである。つぎに、ナラティブを用いた影響工作の例を紹介する。
1983年ごろ、学校の廊下には、「核の冬」のポスターが貼られていた。「核の冬」とは、核爆発によってチリが舞い上がり、太陽光を遮って、地球規模の気候変動を引き起こし、深刻な食糧不足や生態系の崩壊をもたらすとの言説である。当時、ソ連の軍事力の優位性に対抗するため、欧州は米国製の核兵器を持ち込むという計画が持ち上がった。ソ連は、この軍事力増強の動きを阻止するために「核の冬」の恐怖を利用した。実際、KGBの将校が暴露したところによれば、ソ連はNATOが欧州に核ミサイルを配備する計画に対抗して、「核の冬」という概念をナラティブ※4として広めたのである。ソ連は「核の冬」の恐ろしさを強調し、特に欧州の人々に核軍縮の必要性を訴えた。その結果、「核の冬」に怯えた市民が「反戦」を訴え、NATOの軍事力拡大が妨害された。これにより、ソ連は軍事的優位性を保つことに繋がったのである。
日本の歴史問題もまた、ナラティブとして利用されることが多い。日本と近隣諸国との間で歴史認識の違いのあるナラティブを巧みに利用して、外交関係に影響を与えることは知られている。クリティカルシンキングの教育が系統立てて行われていない日本では、特定グループのナラティブを用いた影響工作に対して、耐性が低い。実際、海外からの商業的なプロモーションに簡単にのせられてしまうことは関係者には知られている。
選挙ハッキング、選挙セキュリティ
影響工作による民意の誘導は、民主主義の基盤を揺るがす可能性がある。特に、選挙という社会的意思決定プロセスへの干渉は最大の脅威であり、民主主義の核心を直接揺さぶるものである。選挙結果の正当性への疑念が広がると、国民の間に深刻な不信感が生じ、政治システム全体への信頼が揺らぐ。
このような背景から、米国のインテリジェンスコミュニティでは、選挙セキュリティ対策が重要視されている(図3参照)。選挙に対する攻撃は、国家の政治プロセスに対する信頼を損ない、市民の意思決定を歪めるリスクがあるため、その防止は緊急かつ重要な課題とされている。
「米国選挙に対する外国の影響と干渉は、我が国の民主主義に重大な脅威をもたらす。情報機関コミュニティ(IC)は、外国の影響と干渉から我々の民主主義のプロセスと制度を保護することに尽力している。選挙セキュリティは永続的な課題であり、ICにとって最優先事項である」
図3 インテリジェンスコミュニティによる選挙セキュリティの宣言(出典:文献[3]を抄訳)
2016年の米国大統領選挙におけるロシアの介入は、デジタル影響工作を用いた選挙セキュリティの典型的な事例である。ロシアは、SNSを通じて偽情報・誤情報や悪意の暴露情報を拡散し、選挙結果に影響を与えようと試みた。米国の国際法の専門家であるマイケル・シュミット氏によれば、議論の余地はあるとの前置きがあるものの、「有権者が自分自身の判断に基づいてメッセージを評価する能力を操作されることは、選挙の結果に影響を与えた可能性があり、したがって違法な干渉を構成するものである」と指摘している [4]。
この種の試みは、選挙プロセスの信頼性を低下させ、社会の分断を促進することを目的としていた。これにより、米国社会に深刻な影響を及ぼし、選挙セキュリティ対策の重要性が認識される契機となった。
求められる「顕在化しない脅威」への対処能力
現代の安全保障環境において、デジタル影響工作などハイブリッド脅威への対処は重要性を増している。しかしながら、ミサイルドンパチ系の軍事的脅威とは違い、ハイブリッド脅威は、その脅威が顕在化する前に、ターゲットへダメージを与える。
再度、文献[1]にある概念を用いて、ハイブリッド脅威におけるダメージの高まりとその顕在化までの関係を用いて説明する(図4参照)。
ハイブリッド脅威では、「着火※5」や「不安定化」といったフェーズが進むにつれて、干渉や影響工作が徐々に強化されていく。しかし、脅威が顕在化(赤線)する前に、ターゲットの機能性(青線)が徐々に低下してしまう。この現象は、古来の諺にある「茹でガエル」のようにゆっくりと進行する「サイレントインベージョン(沈黙の侵略)」であるため気づきにくいものである。また、この種の脅威の議論は、陰謀論と見做されてしまうことがあり、対抗のコンセンサスを獲得することが難しい。しかしながら、豪州では、サイレントインベージョンへの対抗を実施した。
安全保障の観点から、今後、このような「顕在化しない脅威」に対する感度を高め、その対処を始めることが求められる。早期に対応策を講じることで、国家の機能低下を防ぎ、ハイブリッド脅威からのダメージを最小限に抑えることができる。具体的には、情報収集と分析を強化し、潜在的な脅威を早期に察知することが重要である。また、社会全体での防御意識を高め、脅威に対する迅速な対応が可能な体制を整えることが求められる。
参考文献
[1] European Commission, & Hybrid CoE, The Landscape of Hybrid Threats: A Conceptual Model Public Version, 2021
[2] ロシアの情報兵器としての反射統制の理論、2022、五月書房新社
[4] Michael Schmitt, “’Virtual’ Disenfranchisement”: Cyber Election Meddling in the Grey Zones of International Law,” Chicago Journal of International Law, Vol. 19, 2018
- 1 欧州Hybrid CoE(ハイブリッド脅威対策センター:Center of Excellence for Countering Hybrid Threats)は、ハイブリッド脅威に対する対策を研究・実施するための組織であり、フィンランドに拠点を置く。
- 2 アテンションエコノミーとは、ユーザーの注意時間を収益化するビジネスモデルである。広告収入を増やすため、ユーザーをより長くアプリやサイトに留めることを目的とする。
- 3 マイクロターゲッティング広告とは、個人の行動データや興味に基づいて、特定のユーザー層に対して最適な広告を配信する手法である。これにより、広告の効果を高め、より高いコンバージョン率を実現する。
- 4 「核の冬」への恐怖感は、ソ連が生み出したものではなく、当時、市民が誰でも潜在的に持っていたものであり、それを、ナラティブとして悪用した。
- 5 ターゲットの活動を混乱させて不安定化に向けた、干渉や影響工作を実施する行為。たとえば、文化や価値観の議論となる争点を投入し炎上を煽る世論分断工作などがある。