ALPS処理水放出ネガティブキャンペーンに隠された狙い~BRICS影響拡大戦略とサイバー空間での情報戦~

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目次

はじめに

東日本大震災の際に発生した福島第一原子力発電所事故から13年、この事故は、今なお様々な課題を社会に突きつけている。その中の一つが、いわゆるALPS処理水[※1]の問題である。ALPS処理水は、その保存が困難となり、2021年に放出することが政府により決定された。決定後、その是非についての物議が醸し出され、特に、一部の国からの日本への様々なネガティブキャンペーンが展開された。本稿では、ALPS処理水放出に伴い、特に英語圏で展開されたデジタル影響工作について調査をもとに考察する。

背景

2011年の福島第一原発事故後、原子炉冷却のために大量の水が使用されたなどの理由で、放射性物質を含む水が発生した。発生した水は多核種除去設備(ALPS)で処理され、トリチウム以外の放射性物質が除去され、いわゆる、ALPS処理水となった。ALPS処理水は増え続け、その保管が困難となった。政府は2021年4月に海洋放出の方針を決定し、2023年8月に放出が開始された。図1に経緯を示す。

2021年4月:
・日本政府が福島第一原発の処理水を福島県沖の太平洋に放出する計画を承認
・福島県漁業者の反発の報道(26日)
2023年6月:
・東京電力が処理水放出設備の試運転を開始
2023年7月:
・IAEA(国際原子力機関)が処理水の放出計画は国際安全基準に合致していると報告
2023年8月:
・政府が処理水の海洋放出開始日を24日に決定(22日)
・東京電力が処理水の海洋放出を開始(24日)

図1 ALPS処理水放出の決定から実施までの経緯

政府の海洋放出の準備が進む中、一部国内メディアが「処理水に深刻な問題がある」が如く報じた[※2]。また、韓国や中国などの近隣国から、ALPS処理水の放出への反発の動きもあった。たとえば、韓国では、2023年6月にALPS処理水の放出への反対デモが発生した。また、中国外交部の報道官による批判[※3]や駐大阪中国総領事による批判[※4]などがあった。また、IAEAによるALPS処理水の安全性の報告が出た7月ごろから、中国政府による非難が増した。中国政府は、同時期に判明した自国の原発からのトリチウム放出の問題には触れずに日本を一方的に非難するなど、ダブルスタンダードとも言える行動であった。

それ自体は珍しいことではないが、中国政府がALPS処理水放出の問題を純粋に環境問題として捉えているのではなく、別の意図があったことが推察される。実際、政治的にALPS処理水放出の問題を利用しているとの指摘[※5]もあった。対する日本政府は、科学的な説明と国際社会への「正確な情報発信」を行った。たとえば、外務省からは「処理水の安全性を説明する」動画が公開された[※6]。また、6月と8月に発生したALPS処理水放出の偽情報に対しては、外務省は反論の報道発表を迅速に行なった[※7] [※8]

X上で展開された海外向けALPS処理水放出反対キャンペーン

近隣国からのALPS処理水放出への批判が繰り返されるなか、放出の直前ごろから、X上でも組織的なネガティブキャンペーンが展開されていた。たとえば、署名サイトを用いた「ALPS処理水放出反対の署名の呼びかけ」を拡散[※9]する行為や、SNSボットの投入などが観測された。

今回、X上で、ALPS処理水放出の批判を目的とする”wasted water”や”Fukushima water”などの単語を含む英語の投稿(以降、ALPS処理水放出批判ポストと呼ぶ)を採取した。採取期間は、2023年8月16日から2023年9月6日とした。

その集計をしたところ、ALPS処理水放出批判ポストの数は2万件に達し、8月24日当日に投稿のピークを迎えていた。また、投稿したXのアカウントを調査したところ、スパモフラージュ[※10]の関連アクターも一部確認された。ただし、直前に、Meta社によるスパモフラージュ関連のSNSアカウントのテイクダウンが最大規模で実施[※11]されたこともあり、スパモフラージュの展開は限定的であった可能性がある。また、採取した投稿の33%がSNSボットと判定[※12]された。過去の日本国内の政治トピックでの炎上の場合ボットの割合は10数パーセントであるので、33%という数字は大きい。

英語での投稿以外に、X上では、韓国語でのALPS処理水放出を批判する投稿もあった。それらを採取したところ、同じく、8月24日に投稿数のピークを迎えた。また、採取した投稿の36%がSNSボットと判定された。その年の6月頃に発生した韓国内での塩騒動[※13]と併せて、親日的政策を採っていた韓国ユン政権への揺さぶりになったであろう。

ALPS処理水放出反対キャンペーンと同時展開されたBRICS影響力拡大

X上でALPS処理水放出批判ポストによるネガティブキャンペーンが展開されていた一方、2023年の春ごろから、BRICS[※14]を軸とした影響力拡大が試みられていた。たとえば、Xでも「BRICSがG7より勢いがあるというナラティブ[※15]」(以降、G7劣勢ナラティブと呼ぶ)を画像と共に展開していたキャンペーンであった。そこで、前述の期間でG7劣勢ナラティブに関する投稿を採取した。

図2は、X上で2023年8月に発生した2つのネガティブキャンペーンでの投稿数の時系列グラフである。図2において、ALPS処理水放出批判ポストを青色(ALPSと表記)でプロットした。同じく図2において、G7劣勢ナラティブに関する投稿をオレンジ(BRICSと表記)でプロットした。すると、8月末のALPS処理水の放出のタイミングにピッタリと併せるかのように、2つのネガティブキャンペーンでの投稿が増えていた。さらに、その投稿数はいずれもおおよそ2万件強とほぼ同数となった。

図2 X上で2023年8月に同時発生した2つのネガティブキャンペーン

さらに、今回採取した2つのネガティブキャンペーンの両方に対し投稿していたXアカウントを調べてみると、11%〜14%、実数としては1万以上のXアカウントの重なりがあった。すなわち、ALPS処理水放出批判ポストを拡散していたXアカウントの11%(約1万)は、G7劣勢ナラティブも拡散していた。逆にG7劣勢ナラティブを拡散していたXアカウントの14%(約1.3万)は、ALPS処理水放出批判ポストを拡散していた。

上述の通りG7劣勢ナラティブを用いたBRICS影響力拡大キャンペーンは、X上では2023年の春先から、展開されていた。G7外相会議(2023年4月16日〜18日、軽井沢町)、G7サミット(2023年5月19~21日、広島市)の直前に、G7劣勢ナラティブを用いたネガティブキャンペーンが英語で展開されていることが確認できた。しかし、それらは、8月のネガティブキャンペーン(G7劣勢ナラティブの拡散)と比較すると拡散度合いは限定的であった。これらのキャンペーンは、前述したMeta社の大規模テイクダウンの前後であったことに加え、我々の研究チームによる分析により、スパモフラージュ関連グループとは別のグループによる実践であったと推察される。BRICSサミットがあった8月末に向けて、ネガティブキャンペーンを盛り上げることにより、多くの人がX上の投稿への関心を高めることになったであろう。その中で、G7劣勢ナラティブはより多くの人の目に触れた。

BRICS諸国は、2023年、その拡大と影響力強化のため、多分野での連携を深めることを試みていた。7月にはイランが上海協力機構(SCO)に加盟し[※16]、翌年、UAEなど6カ国がBRICSに加盟が承認された[※17]。また、イランを含めBRICS諸国の公的メディアの連携が推察される情報発信の増加が、Hamilton 2.0 Dashboardで確認できた。その他、米国のサイバー作戦を暴くレポートや中国への帰属が推察されるサイバー作戦の帰属を否定するレポートを、CVERCが公開するようになった[※18] [※19] [※20]。すなわち、既存の国際秩序へのオルタナティブを提示し、グローバルガバナンスにおけるプレゼンスを高め、新興国・途上国からの支持獲得を図っていた。特に、2023年8月の処理水放出開始直前に、BRICS関連イベントが集中していたこともあったので、BRICSの枠組みを通して日本への批判を展開し、BRICS内での結束とアフリカ諸国の支持獲得を図ったことが推察される。もちろん、SNSのキャンペーンだけで、BRICS影響力拡大が成功したわけではないが、その一端を担っていた可能性は否定できない。

デジタル影響工作:情報戦のパラダイムシフト

表現の自由を標榜する国家においては、デジタル影響工作による「民意の誘導」や「社会的不和の誘発」は脅威である。2010年頃のカラー革命以降、サイバー空間での情報戦が一般化した昨今、デジタル影響工作のリスクが増加していると言える。

今回、ALPS処理水放出について他国からの一方的な批判に対して、日本政府は科学的説明を繰り返すという「お行儀の良い」対抗措置を採った。国内でその対応を評価する声もあったが、ALPS処理水放出問題が、BRICS影響力拡大キャンペーンという大戦略の一環として悪用されており、彼らの意図を見誤っていた可能性は否定できない。

今後、デジタル影響工作への対抗戦略の見直しと、より一層の強化が求められる。具体的には、ALPS処理水放出へのネガティブキャンペーンに伴う政治的動機、言わば、「隠された狙い」を暴露することが効果的なカウンターの一つと言える。さらに、国内外で展開されるキャンペーンの監視と分析、システム開発、デジタル空間での戦略的な体制整備及び人材育成が必要であろう。

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この記事を書いた人

齋藤 孝道のアバター 齋藤 孝道 リサーチフェロー

明治大学理工学部情報科学科・教授、博士(工学)。明治大学サイバーセキュリティ研究所・所長。レンジフォース株式会社・代表取締役。専門は、情報セキュリティ技術全般。特に、デジタル影響工作、Web追跡技術、AI技術応用。著書:マスタリングTCP/IP情報セキュリティ編・第2版(オーム社)、「ネット世論操作とデジタル影響工作:「見えざる手」を可視化する」(原書房)。

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