陰謀論と愛着スタイル
愛着と党派性
ジョゼフ・E・ユージンスキは『陰謀論入門』で、愛着スタイルと陰謀論の信じやすさの関係について論じている。自然科学的な研究によるデータに基づいた見解として彼が言うには、不安型と回避型の愛着スタイルを持つ者は、陰謀論の信じやすさと相関があるという。
愛着スタイルとは、人が人と接するときの信頼や不安の抱き方パターンのようなもので、多くの場合、親やそれに準じる育成者との関係で形成される。安定した愛情を注がれていると安定型の愛着スタイルになるが、親が不安定だったり不適切な関わりをすると、不安型や回避型、混淆型(恐怖型などと表記されることもある)になる傾向がある。不安型の典型例としては、恋人に精神的に依存し、愛情があるのかどうか不安になってしまい、いつも確認してしまうとか、「試し行為」をしてしまう、などである。回避型は、そもそも愛着や親密性の感覚自体を形成することから逃れようとする。
愛着スタイルは、いわゆる、アダルトチルドレンとも関連が深い。安定型以外の者は、それぞれ、他者や世界や自己への信頼のあり方、安心のあり方に難を抱えている傾向がある。フロイトの精神分析ではないが、我々は成育環境において、親やそれに準じる者たちに生殺与奪を握られているため、そこでの経験を他の関係性にも投影しやすい。たとえば、父のあり方は、教員や権力者のあり方に無意識に投影されるだろう。酷い父だった場合、権力的に上位の存在に対して反抗的な態度になりがちな傾向が出る。
愛着のあり方は、教師、マスメディアや科学者、政府などの言っていることをどのように受け止めるのかにも大きく影響する。陰謀論にしろ、デマにしろ、他者をどのように信じ、疑うかということは、コミュニケーションの問題である。厳密な科学的トレーニングを受けていなければ――いや、受けていてもなお――このような成育歴に起因する脳の反射によって、我々は好悪の感情、善悪の判断、正誤の認識に影響を受けてしまう。たとえば、不安型の人間は、愛着の対象を疑い、そうであるからこそ「本心」(真実)を探ろうと無限遡行してしまう傾向を持っている。そのような反射的な脳の反応は、政府やマスメディアや権威が言っていることを信じようとする、安心しようとする際にも生じるだろう。「〇〇の真実」を知りたがったり、本音を暴きたがる心理の背景に、このような愛着の問題が存在している可能性はある。
世論を分断するような争いにも、愛着が関係しているとユージンスキは言う。「幼少期に親、学校、宗教から受ける影響によって、人は党派的な愛着を発達させ」(p129)る。「党派性とはつまり、人がどの争点を信じるかを決定するというよりも、どのエリートから手掛かりを得るかを決定する集団への愛着ということになる」(p134)。そして、人は、あらかじめ持っている信念に合致する情報を好み、それを揺るがし認知的不協和を起こす情報は、たとえそれが客観的に揺るぎないハードファクトであっても受け入れようとしない傾向があるという。「人はとにかく、真実よりも、自分がすでに信じている内容と矛盾しない情報源を選ぼうとする」「多くの人が表明する意見は、信頼するエリートの意見のおうむ返しに過ぎないということだ。政治的な議論が膠着状態に陥るのは、たいていの場合こうした理由からであり、つまりは、表明される意見がそもそも丁寧な論理的思考を経てたどり着いたものではない場合、道理や証拠によってそれを変えることはできない可能性が高い」(p104-105)
とすると、「ポストトゥルース」と呼ばれ、科学的な事実やデータや論理による説得が、世論形成に与える影響が小さくなっていると言われるようになっている現在を、愛着の争いとして解釈し直す方向性があるのではないか。リベラル・デモクラシーが想定していたような、明晰な討議的理性を持った者同士が対話し弁証法的に議論しより良い結論を導くという民主主義のモデルで考えるのではなく(もちろん、それはとても重要なことである)、愛着と愛着の争いが起こっているという、愛のモデルで理解する方が、良い対処ができる場面もあるのではないだろうか。
同性婚に反対し、ジェンダーやセクシャリティの多様化にも反対する、保守的な家族観を持っている人達がいる。彼らのその判断は、合理的な理由だけではないだろう。自分が生まれ育った価値観、家族などへの愛着と深く結びついていないだろうか。あるいは、家父長制度を守ろうという人たちも、先祖への敬愛や、家や墓を守ってきたことへの愛着、生命の連続性という儒教的感覚がそのベースにあるのではないだろうか。「表現の自由」戦士と呼ばれる人たちも、自分たちが愛してきた二次元美少女やジャンルへの愛と防衛意識なのではないだろうか。ネット上のフェミニストたちの一部が、妄信している理論に反するデータや事象を都合よく否認あるいは無視する場合だってそうだろう。あるいは、移民排斥を訴える極右たちや、白人至上主義者や、ミソジニストたちも、多くの場合そこにある心理は「防衛」なのではないか。もちろん、彼らの信念の多くは、『陰謀論入門』でも、陰謀論の典型として扱われている。だが、その根っこには、これまで馴染んで大事にしてきた文化や党派への愛着があると考えられるのではないだろうか。
そう考える根拠として、ある一人の保守批評家の例を出す。筆者は、戦後日本を代表する保守批評家である江藤淳の著作の多くを集中的に読んだことがある。彼は、「WGIPプログラム」と呼ばれる、ネット右翼御用達の「陰謀論」(厳密にいえば、完全には陰謀論とも言えない部分もあるのだが)を最初期に提示した一人である。彼は、戦後日本社会が「仮構」つまり、ニセモノだと感じていた。その原因は、戦争で負けてアメリカに占領され、それまであった日本が失われ、言語空間が「閉ざされている」からである、と彼は考えた(『自由と禁忌』『閉された言語空間』)。しかし、遺作となった『幼年時代』を読めばわかるが、「タブー」がなく「自由」であったと彼が考えるとき、すなわち、アメリカ化しニセモノになる前の状態とは、彼と母親が密に繋がっていた時期を心理的モデルにしているのだ。江藤は四歳の頃に母をなくしている。愛着スタイルとは当然安定しない。その母と結びついている戦前・戦中の日本こそが彼にとって「本物」の日本であると感じられる。その愛着のあり方が、反米であり、天皇主義者となった彼の政治思想と不可分であることは、著作を読めばはっきりと分かる(拙稿「江藤淳はネトウヨの“父”なのか」『すばる』二〇二〇年二月号)。文化と、それと結びついた愛着は、政治思想に影響し、江藤が石原慎太郎と友人関係にあったことから窺い知れるように、その思想はリアル・ポリティクスにも影響していたと思われるのだ。
愛着に不安定を抱えるものは、不安のあまり、自分を安定させてくれる装置を求めやすい。それが、心理の中で仮想的なイメージとして現れる、宗教や党派、国家や民族である場合も少なくない。それと一体になっている、所属している、一緒にいるという感覚によって、愛着の不安を克服する傾向があるのである。江藤の場合は、(母を含む)死者たちの霊が日本においては空間の中に存在している、という死生観によって、愛着の対象を母=日本文化に移行させた(『落葉の掃き寄せ』)。結果、日本は、アメリカの蹂躙から守らねばならぬもの、となる。文化とは、一人一人の人間にとって、そのようなアイデンティティや心の安定の心理的な支えとなるものである。だから、愛着の問題は重要なのだ。
愛着スタイルが家庭で決まる部分が大だとすると、大家族だったり地縁がたくさんあれば、親がちょっと問題あっても、他の人間が介入したり、ケアしたりして、相対的にはマシであった。しかし、今は密室での子育てである。虐待なども起こりやすい。(筆者の家庭もそうなので非難するつもりではないが)両親が共働きの家も増えているだろう。……これらの総体として、愛着のスタイルに不安型や回避型が多くなりやすくなる傾向が出てしまうのだとすると、それ自体が陰謀論やデマや情報工作への大きな脆弱性になるのではないかと推測される。
所属感を求めて、陰謀論を信仰する
トマス・ジョイナーの「自殺の対人関係理論」によると、自殺のリスク要因の一つは、「所属感」がないことである。共同体、集団、仲間、何かに受け入れられているという感覚がなく、人とのつながりが少ないと、自殺のリスクが上がる。つながりは、友達でも、スポーツのチームを応援する仲間でも、教会に通う信者の仲間でも、なんでも良い。おそらくは、「所属感」さえあるのなら、国家や、自然とのつながりや、死者とのつながりであってもいいのだろう。
そして、その「つながり」を求める場が、陰謀論や過激派の集団、オンラインコミュニティになっているのではないか。ダニエル・J・クラーク監督の『ビハインド・ザ・カーブ』というドキュメンタリーで、地球平面説を信じる者たちや、それを広めるインフルエンサーたちを取材していた。コンベンションに集まり、音楽を作り、それは楽しそうであり、アメリカのオタクたちの集会とよく似ていた。そこで、地球平面説を広めるインフルエンサーは、仲間ができるし、どうせならファニーなものが良いだろう、という旨の発言をしていた。陰謀論は、仲間を見つけるためのネタという側面があり、そのことは自覚されているのである。実際、彼は美人の彼女と付き合うようになっていた。
すなわち、陰謀論や過激な思想というものも、そのような自殺に近づくような心理状態の人間たちが、「つながり」「所属感」を求めて、自己治癒的に参加している部分があるのではないかと推測されるのだ。
現在、都市部に生きる多くの人々にとって、共同体や地縁は解体されている。筆者は北海道出身で、祖父母の家には「本家」「分家」などがあり、祖父母には十人近い兄弟がおり、行事ではたくさん集まっていたという記憶を持っているが、現在の自分は東京のマンションに妻子と三人で住み、完全に核家族であり、ご近所づきあいもない。筆者が幼い頃は同じアパートで、子供がいる母親たちが協力しあって子育てをしていた記憶があるのだが、そのようなつながりも、今住んでいるマンションではほとんどない。親族・地域共同体は解体されていっている。非正規雇用であれば会社共同体にも所属しにくく、現在では恋人を作ったり結婚する率も非常に低下している。「無縁社会」化が進行しており「所属感」が低下していると推測される。
特に、一九九五年以降の不況と新自由主義政策により、独身、高齢、非正規雇用化した者が多い氷河期世代の者たちは、このような孤立に悩んでいる者が多いと推測される。ユージンスキも言う。「無力感、社会的疎外感、自信のなさ、不安感、コントロールができないという気持ちは、陰謀信念と相関関係がある。疎外されている、他者にコントロールされている、無力である、将来が不安だという感覚を持つ人たちは、自分の置かれている立場を理解するために、あるいはうまく対処するためのメカニズムとして、陰謀論に傾倒する可能性が高い」(『陰謀論入門』p108)。彼らは、陰謀論の影響や、情報工作で動員されるリスクが高いだろう。
であれば、危険な陰謀論や、過激派や反社会的な行動を共有するのではないかたちで、「所属感」を持てるようになり、愛着の不安定さを克服できるようになるならば、陰謀論や過激派や情報工作による害を低減できるようになるのではないだろうか?
「つながり」を回復すること
重要なのは、他者とのつながりと、信頼を回復すること、それによって愛着を安定させることが、まず大事なのではないか。たとえば、自助サークルや、ピアカウンセリング、趣味の集まり、ボランティアなどに、実際に参加し、他者とのつながりを感じ、愛着を回復させることが重要なのではないか。そのための制度的支援や公助・自助努力が重要なのではないか。
来談者中心療法というカウンセリングの手法を作ったカール・ロジャーズは、ロチェスター児童虐待防止協会で臨床に関わっており、愛着スタイルに問題を抱えた人々を多く見てきた。その手法は、カウンセラー(≒父)が指導し教育するのではなく、単に受容し共感するところから始める。他者に受容され共感されるという経験に乏しいので、愛着や信頼がそもそも形成されていない、という問題を解決するためである。このとき、否定的な感情を出るに任せることが、肯定的に変わっていく重要な契機だと言われている。このような、受容と共感を経験し、愛着が安定し、信頼を回復するようなコミュニケーションを、互いにしていくことは出来ないだろうか?
科学コミュニケーション界隈における議論で、論理や事実を単に啓蒙するだけでは、相手の考えを変えることが難しそうだという知見が、東日本大震災以降に蓄積してきている。その理由は、ここまで書いてきたことと関係しているだろう。不安や脅威の感覚、あるいは愛着や親密さのようなものは、単なる論理や事実とは違う原理なのだ。愛は、数値や比較とそぐわないのだ(多くの親は、自分の子供が世界一だと、客観的な指標で思っているわけではないだろうし、恋人を「運命の人だ!」と思うときに、世界中の何十億人と宇宙の広大さの中で出遭える確率を計算してそう判断するわけではあるまい)。
論理や事実でのコミュニケーションを「ロジハラ」という意見がある。場面によっては滑稽な意見だが、それは要するに、感情や共感や受容を求めている場面に対して、論理や事実ベースのコミュニケーションを行うことへの反発、満たされなさの表明であると理解した方がいい。繰り返すが、様々な文化戦争や、政治的対立の背景にも、愛着の問題がおそらくはある。その対立は、単に論理や科学だけで片付く問題ではなく、互いの不安や恐怖や脅威の感覚や、愛着や心の安定のような感情的側面を想像し、理解し合うアプローチの方が有効な(頑なな心が解れて、互いの理解を促進する)場面もあるのかもしれない。
VTuberや、社会問題化しているホストの隆盛、「推し」のブーム化は、金銭を払って愛着や親密性の満足を満たすニーズが広範に存在していることを伺わせる。このような愛着の問題を癒し、他者を信頼することを覚え、安心感を得られるような社会の仕組みを整備し、そのようなコミュニケーションを促進することで、社会全体として陰謀論や過激派に吸引される心理を改善していくアプローチが考えられないだろうか。それもまた、陰謀論やデマ、フェイクニュースや情報工作、過激派や通り魔やテロなどを減らすために必要な、国防であり治安対策であると考えた方が良いのではないか。
大きな話になってしまうが、ゆくゆくは、このような愛着の次元を考慮に入れて、家族や社会や国家やサブカルチャーなどのあり方を大きくデザインし直し、安定型の愛着スタイルの人間を増やしていった方がいい。それを、公的な議論や政策の課題としてセッティングしていく必要がある。