日本の情報工作対策
日本における情報工作対策は内閣官房が音頭を取ることが2023年4月の官房長官会見で発表された。しかし、いまだその成果が目に見えることはほぼなく、内閣情報調査室(内調)が中心的役割を果たす体制に疑問を抱く声は政府内外から聞こえてくる。日本経済新聞でサイバー安全保障の取材に携わる立場から、問題点をまとめてみる。
①対外発信の失敗
当時の会見の概要は以下の3点だ。
●外務省、防衛省等が外国からの偽情報等の収集を強化
●内閣情報調査室がオープンソースの収集・集約・分析を実施
●対外発信を内閣広報官の下で官邸国際広報室が関係省庁と連携して実施
弊社の新聞記事データベースで検索したところ、大手各紙は4~5ページ目で150〜600文字程度の分量で記事を掲載している。恐らく政治面などのベタ記事か最大でも2番手の記事といったところだろう。大半の国民はこの記事を読んでいないか、記憶に残っていないのではないか。
対して今年初めの能登半島地震での偽の救助要請情報や、フェイスブック上の投資詐欺の偽広告は大きな話題となり、プラットフォーマーに迅速な対処を義務付ける情報流通プラットフォーム対処法(改正プロバイダ責任制限法)の成立にもつながった。
こちらは誹謗中傷や詐欺など個人の権利侵害を引き起こす有害情報が対象で、総務省が音頭を取っている。内閣官房が対象とする情報工作とは背景が異なる。しかし、結果的に国民の大半が「偽情報対策」と聞いてイメージするのは総務省の動きではないだろうか。
総務省の対象となる問題が国民にとってより身近に感じられる内容だという事情もあるが、総務省側のPR戦略も巧みだった。偽広告に利用されたインフルエンサーを政府の勉強会に招聘することで、ワイドショーも巻き込み、一気に話題をさらった。
対して内閣官房側の会見は国民の耳目を集める意図があるとはとても思えない。情報量がそもそも少ないし、内容も不透明だ。情報工作やFIMI(Foreign Information Manipulation and Interference)ではなく、「偽情報」という言葉だけで問題を定義した結果、総務省側の問題と区別もつきにくくなってしまった。デバンキングなど対外発信を含む政策にもかかわらず、政策そのものの発信で初手から躓いている気がしてならない。
補足として、筆者が内調と国際広報室に今夏に追加取材した内容も以下にまとめる。質問にはほぼ回答せず、消極的な受け答えに終始した。回答内容が整理されていないものが多く、そもそも対外的なアピールの必要性を感じていない姿勢が窺える。
内調
●対象となる偽情報は「外国の懸念主体により、我が国の安全保障・主権等に否定的な影響を与える意図で拡散される、事実ではない情報」であり、この場合の懸念主体とは「我が国に工作を仕掛けている国家組織、非国家主体」
●発信主体が懸念主体に当たるかは情報を収集した各省庁が判断する
●内調の分掌は内閣の重要政策に関する偽情報の収集分析。外務省、防衛省なども自らの分掌に基づいて情報収集をして内調に共有するが、緊急性がある場合は自ら分析・発信をすることもある
●対象となるオープンソース、収集・分析手法、外務省・防衛省などとの役割の違い、両省以外の省庁の関与などは全て答えられない
広報官室
●対外発信は国家安全保障局、外務省、防衛省と連携し、各省庁・官邸のサイトやSNS、記者会見などを通じて行う
●カウンターナラティブに限らず、平素から正確な情報発信をすることも業務の一環。故にこれまでの発信のどれが偽情報対策かは明確に区分できず、対応件数は答えられない
●対外発信の基準は安保・主権への影響度、発信にメリットがあるか、実効性などを考慮する
●発信内容の方針は「全体として総合的な判断」としかいえない
②”透明性”の欠如
インテリジェンス機関である内調が情報発信に消極的になることは仕方が無い側面もある。特に日本の主要インテリジェンス機関の中でも内調は秘密主義だ。警察、防衛省、外務省などと違い、記者クラブも会見の機会もない(※記者クラブ制度への批判に関する議論は本稿では省きます)。定期的な取材機会は内閣情報官の非公式の囲み取材にほぼ限定される。
ただし、秘密主義を絶対的なものとせず透明性とのバランスをとるべきだ。実はこれが4〜5月に英国政府主催のサイバーセキュリティ研修に筆者が参加した折の研究テーマの重要な要点の1つだった。
情報工作対策も含めたサイバー安全保障は民間との連携が不可欠だ。分析対象となる情報は民間側が保有しているケースも多く、分析のための人手も民間の協力なしでは確保できない。また通信の秘密や言論統制への懸念といった機微な問題に触れる性質上、透明性の欠如は政府への不信感を高める。
英国ではサイバー安保体制の基礎となった2016年の捜査権限法において、インテリジェンス能力の権限強化に動いた。同時に乱用を避けるための基準として3Rフレームワークという概念を元に専門家の議論が行われた。即ち明文化されたルール(Rule)、司法や立法からの制約(Regulation)、実行するオフィサーへの抑制(Restraint)である。これらに基づき、諜報行為における細かな令状の取得方法の明文化、高位司法役職者や首相による監査、倫理カウンセラーの配置といった対策につながっている。
こうした対策を参考に、研究発表では実際に情報公開をすることがなくとも、内外からの透明性を重視するプレッシャーを継続的にかけ続けることが重要だとまとめた。
例えば日本には行政公開法に基づいて、30年後の行政文書を公開する仕組みがある。例外を設けることは当然あるとしても、仕組みが十分に機能していれば「いずれ自分の行為が白日の下にさらされるかもしれない」という襟を正すモチベーションを組織内に生み出すことが出来る。
しかし、研究期間中にインタビューした日本の主要インテリジェンス機関の関係者は口をそろえて「インテリジェンス情報の情報公開の研修を受けたことはない」と答えており、現状日本で機微情報を対象に公開制度が運用されている様子は窺えない。
同様にプレッシャーを与える外部機構としてメディアの存在は重要だ。ただし、メディア側に正しい前提知識が無ければ健全に働かない。単に内調を「闇の組織」と批判することに生産性はない。だからこそ普段から自身の職務について理解を深めてもらうパブリック・メディアリレーションが必要になる。
メディアと緊張関係のある関係性を築くことで、メディアを自組織の自浄に(良い意味で)利用するという視点を内調を含めたインテリジェンス機関が持つべきだという主張は、インタビュー対象の関係者からも合意を得た。
③インテリジェンス機関の連携
透明性とはまた別の観点から、内調が情報工作の枢要を担うことに不安の声も挙がる。内調と他のインテリジェンス機関の不和だ。
特定秘密保護法の成立により、内調が各機関から情報を吸い上げる仕組みが整った。しかし、上記の研究期間中に行ったインタビューでは、ある機関の関係者が「内調に情報を上げたことは記憶にない」と語り、一方で内調関係者は当該機関を指して「あんなところから情報をもらっても意味は無い」と鼻を鳴らした。他の関係者も一様に特定秘密保護法以前からの連携不備は現在も続いていると証言していた。
ほかにも「歴史的に政権を守るための国内の政治関連情報が尊ばれてきた歴史がある内調が、海外からの情報工作の分析を担うのに的確な組織とは思えない」という疑念の声が当の内調に所属した経験を持つ人からもあった。
また、直近の海外からの情報工作はサイバー攻撃と連動して行われることが多い。中国、ロシア、イランなどのユージュアル・サスペクツで特定の機関や民間企業が情報工作とサイバー攻撃の両方に関与していると指摘するレポートは数多い。
つまり今後はサイバーセキュリティ政策を担う内閣サイバーセキュリティセンター(NISC)との連携も求められる。正確には予定されている発展的解消が終わったあとの新生NISCだ。しかし、内閣官房のサイバー安全保障体制整備準備室の関係者によれば「情報工作は現在議論の俎上に上がっていない」とのことで、サイバー防衛と情報工作対策の連動の仕組みは不透明なままだ。
④一貫した情報運用の方針が見えない
昨年4月以降の実際の情報発信の状況も調べてみた。
米英の取り組みと比較するため、在英・在米の日本大使館、在日の英国・米国大使館の4つのXアカウントが投稿した2023年4月〜2024年7月のポストをチェックし、デバンキングやカウンターナラティブの数を数えた。特定の情報や意見表明に対し、真正性や正当性をはっきりと否定している投稿を対象に計上した。
その結果、在英・在米の両日本大使館は1件のみ。いずれも福島第1原子力発電所からの処理水放出に関するものだった。在日の米英大使館はそれぞれ13件、10件だった。
デバンキングの数は多ければ良いというものでもない。そもそも米英に比べれば日本で報告されている情報干渉の件数は極端に少ないし、デバンキングによってかえって情報を拡散するリスクもある。しかし、その内容からは情報運用の一貫性が欠如しているのではないかという疑念が浮かぶ。
例えば今年3月、国連の安全保障理事会で対北朝鮮制裁を監視する専門家パネルの任期を延長する決議案にロシアが拒否権を行使した。米英は「ウクライナで使用する武器を入手し続けるために制裁を回避する新たな方法だ」などと拒否権発動の正当性を批判した。他方日本は米英と並んで批判する共同声明に加わっているにもかかわらず、Xでの発信はしていない。
もともと戦後にインテリジェンス活動への薄暗いイメージが定着してしまった日本において、インテリジェンスを公開することへの忌避感は強い。
インテリジェンス機関の元幹部は「大韓航空機撃墜事件で、日本は情報を公開することで敵国の行動を抑止するという視点を完全に失ってしまった」と指摘する。当時、日本が傍受したソ連軍機の傍受内容が国連で公開された後、ソ連側の対日の防諜対策が一気に進み「日本のインテリジェンスの収集が10年後退したことへの後悔がある。結果として、現状の日本ではインテリジェンスの運用においてちぐはぐな対応が続いている」との見立てだ。
しかし、ロシアのウクライナ侵攻以降、米国を始めとした西側諸国がインテリジェンスの公開による抑止を主要な戦略の1つとして組み込んでいるのは明らかだ。日本がこの視点を見失ったまま情報工作に対抗することは出来るのだろうか。