陰謀論と信頼

陰謀論とデマが政治を動かす時代
2024年11月の兵庫県知事選において、斎藤知事の再選に、多くのデマや陰謀論と思しき内容が駆使され、出口調査の結果などから判断し、SNSに多く触れている若い世代中心に大きな影響力があったことが推定される。それには立花孝志のYouTubeチャンネルが大きく影響していたと分析されており、デマや偽情報が世論を変え政治を動かす影響力を持つことが、多くの人々の目にはっきりしてきた。ルーマニアでは、大統領選へのロシアからの偽情報・情報工作を理由に選挙をやり直すことになった。お隣韓国では戒厳令をユン大統領が発したが、これにもYouTubeなどの陰謀論の影響が指摘されている。どこまでがデマや陰謀論で、どこまでが真に存在する陰謀や情報工作なのかもはっきりしない疑心暗鬼が蔓延し、不安と恐怖の中で大きな判断ミスが起こりかねない危険な状況が、切迫してきているように感じられる。
インテリジェンスの情報収集・分析、新旧のメディアによるファクトチェックなどが極めて重要なことは言うまでもない。しかし、ファクトチェックは、短期的には有効でも、対症療法に過ぎないのではないかという懸念も浮かんでしまう。兵庫県知事選を例に、そのことを考えてみよう。
大阪大学教授・三浦麻子の「兵庫県知事選挙に関する意識調査」によると、斎藤知事を支持した人たちは他のメディアよりもSNSや動画プラットフォームから情報を得ていた率が高く、「陰謀論的心性」が有意に高い。「マスコミ」「政府」「議会・国会」「政治政党」に対する信頼が低く、その中でも特に、マスコミへの信頼度の低さが特徴である。斎藤知事を支援し、知事選に関する動画の再生回数が1500万回を超えると言われているNHKから国民を守る党党首・立花孝志は、既存のマスメディアに対する不信の「物語」を振りまき、斎藤知事は罠にハメられ陥れられているのだ、と主張していた。これらの結果を見ると、マスコミ不信が投票行動に影響したと推測することができる(データなどを引用しもう少し詳細な分析をした文章は、『中央公論』2025年2月号「ネット・ポピュリズムが一線を越えた2024年」に記したので、ここでは粗い言及で容赦してほしい)。
インテリジェンスやファクトチェックが有効に機能するためには、それらに対する「信頼」が必要である。しかし、その「信頼」こそが毀損されているのではないか。マスコミ、政府、議会・国会など、これまで権威があり、信頼に値すると思われてきた存在に対する懐疑と不信が蔓延しているという根本の問題を解決しなければ、インテリジェンスやファクトチェックも対症療法に過ぎず、根本的な大きな病気の改善に繋がらないのではないかと思われるのだ。今回は、「信頼」という観点から、陰謀論が跋扈する状況について、考えてみたい。
信頼と存在論的安心
我々は、日常的に、何かを「信頼」している。世界の全ての出来事を、自分の目で確かめたり、一次情報に当たることはできない。マスメディアやSNSなどに流れてくる情報、あるいは研究者の論文や専門家の見解をある程度信頼することで、日常を送ることが出来ている。それは、科学や裁判などについてもそうである。いちいち全てを検証することは不可能であるし、判決も、「それなりにちゃんと確認していて、確かだろう」と、なんとなく判断している。つまり、そこには「権威」に対する「信頼」というものが作用している。そして、たとえばフェミニズムによる性被害などへの判決への疑義や、反ワクチンの議論の盛り上がりなども含めて、それらの「権威」への「信頼」が低下しているのが現在であり、それゆえに陰謀論が跋扈しているのだと考えられる(インテリジェンスが如何に正確な情報を提供していようと、インテリジェンスを信頼できなければ、YouTube情報を信じてしまうことも起こるだろう)。
これらの場合における「信頼」とは、顔のある具体的な人間に対するそれではなく、顔が直接見えないシステムそれ自体への信頼を意味している。アンソニー・ギデンズは「抽象化システム」と「専門家システム」が、近代と密接に結びついていると論じているが、現在はそれへの「信頼」が低下している時代だと考えられる。
ギデンズは、「信頼」と安心感を関連付けて考えている。それが、これまでの連載で論じてきた「存在論的安心」である。存在論的安心は「自己のアイデンティティの連続性に対して、また、行為を取り囲む社会的、物質的環境の安定性に対していだく確信」であり「信頼という観念にとってきわめて重要な、人とものごとの信憑性に対する意識は存在論的安心感の基盤をなして」(『近代とはいかなる時代か?』p115-117)いると彼は書く。
前近代において――多分、今もそうだと思うのだが――世界や人生の「意味」を「こうだ」と断言する存在への心理的ニーズがあった。だから、宗教者やカリスマが必要となった。彼らが提供していたのは、「安心感」であり、それを満たすことが権威や権力の源泉だったかもしれない。一方、近代以降は「専門家」がその代わりになる。しかし彼らは、宗教などのように世界や人生の意味を断言し安心感を与えることはできない。
近代と前近代における、「信頼をともなう環境」の違いを、ギデンズはこう図式化している。前近代では①親族関係、②地域共同体、③儀式などを通した宗教的宇宙観、④伝統・過去志向が、存在論的安心や親密さを生み出す環境として存在していた。しかし、近代以降は、①友人や性愛などの親密さにおける対人的関係性、②抽象的システム、③反事実的未来志向的思考、が信頼をともない、安心感を生み出す元になるように変わったのだという。反事実的未来志向的思考とは何かというと、過去を参照するのではなく、未来を志向し、ポジティヴに希望を持つということに近い。近代以降は神のような絶対的で超越的な存在は想定しないが、人間が自分たちを再帰的に修正し続けていくことでなんとかなる、そのことへの信と安心感や期待が代替しており、それが専門家への信頼や尊敬とも関係していただろうと思われる。
近代は、これまでの価値観や生き方を更新し、未知の状況に次々と人類全体で突入していくような時代であるから、人々は不安になりやすい。特に、現在のような変動期には多くの人が不安になり、安心のために前近代的な「信頼をともなう環境」への回帰願望を抱きやすい。宗教右派が世界中で力を持ち、政治的な勢力となるのも、そのせいだろうと推測される。一方、後者のような、都市的・科学的・合理的な生き方の人々もおり、「信頼」「安心」の調達の仕方が異なるので相容れず、「文化戦争」になるのだとも推測される。
では、存在論的安心を獲得するには、「システム」「専門家」への信頼を調達すれば良いのではないか、と考えることも可能だが、そこにも困難がある。何故なら、システムや専門家それ自体が間違っている可能性も直視せざるを得ない状況になってきているからだ。その具体的な例は、ギデンズも挙げている、科学の発展の末の戦争の工業化による人類絶滅のリスク、それから、地球の環境破壊の帰結としての気候変動や人類絶滅の脅威である。資本主義は格差を拡大し続けてもいる。それは、これまでの人類のシステムの延長線上、専門家たちの判断の積み重ねの上に存在しているのである。だから、この大状況の元では、システムや専門家を信頼しにくくなり、「このままではとんでもないことが起こる」という不安と不信が高まり、安心感が得られないのは当然だろうと思うのだ。フェミニズムの、司法や政治への不信も同様かもしれない。インターネットやスマホ、AIの普及、ニューメディアへの移行に対応できていない政府や制度や価値観だって、同様であろう。この状況では、これまで通りで「なんとかなる」とシステムや専門家を信頼し、安心することが困難なのである。世界を統治する「エリート」を懐疑し、現状を破壊しなければいけないという切迫感が生じることには、根拠が存在しないわけではないのだ。
この極めて大きな問題に対して、小手先の対応のみで解決することは困難であろう。必要なのは、人類の大きな間違いと脅威を取り除くようにシステムを更新しつつ、不信や懐疑ゆえに起こる陰謀論や妄想に近い破壊的な行為を抑止していくという、極めて慎重なバランスを採った進み方であろう。
民主的な価値観に基づく一般的信頼
社会学者の数土直紀は、「人への信頼、システムへの信頼、何が異なるのか?」(『現代社会学理論研究』2016年10巻)で、この「信頼」を巡る状況を「どん詰まり」と表現し、「一般的信頼」を社会関係の基盤とすることを提案している。
少し長いが、引用する。「これまでの社会学理論における信頼の区分にしたがう限り、私たちは信頼についていわばどん詰まりの状態に置かれているようにみえる。技術が高度に(そして複雑に)発達した現代社会では、生きていくために様々な場面でその道の専門家に頼らざるを得ないし、逆に言えば専門家を信頼しさえすればきわめて快適に生活を過ごすことが可能になっている。しかし、社会システムが高度に発達すればするほど、私たちの対象に対する知識は次第に乏しいものになり、専門家に対する信頼は権威に対する帰依に近いものになっていく。そして、知識を欠いた人びとの根拠なき信頼は、ひとたび事件が起きれば、実際はいかに根拠がなく、そして無謀なものであったことが明るみになってしまうのである。こうしたどん詰まり状態を打開するためには、私たちは人格信頼ではなく、システム信頼でもない、別の形の信頼を社会関係の基盤におくことが必要になってくる」(p19)。
たとえば、その「信頼」がいかに根拠の薄弱なものであったかを、私たちが原発事故や金融危機などの度に、思い知らされている。「一般的信頼」とは、「世界や人はだいたいにおいて信頼できるはずだ」という信のようなものである。それは、システムや専門家に対する信頼と違い、「それはあくまでも人びとの交流を通じて自生的に生成されるものであり、技術や権力によって生み出される何かとは性格を異にしている」(p20)という。直接的な対人関係を元に生まれる信頼のようである。
彼の数理的な研究によると、システムや専門家に対する信頼は権威に対する服従になるという問題点がある。だが、「民主的な価値観にもとづく信頼は、社会全体に民主主義が定着することで人びとの間に一般的信頼をもたらすが、しかしシステム(たとえば、政府)に対しては批判的であり続けるようなタイプ(あるいは、いっそう批判的になるようなタイプ)の信頼だった」(p28)。このことが、信頼の情勢と存在論的安心を考えるヒントになるかもしれない。
人と人との間には信頼がありつつ、システムを批判的に検討するタイプの民主的な信頼は、権威主義的な信頼と対比される。一般的信頼を用いた場合、権威主義的な価値観に基づく信頼の方向に行くパターンもある。その場合、「妄信」という、システムや専門家などの権威への信頼が行き過ぎるパターンと同じ問題に陥ってしまう。懐疑と不信が渦巻く現在に必要なのは、民主的な価値観に基づく一般的信頼だと思うが、しかし、その民主的な価値観それ自体に対する信頼が崩れてきているのが現状なのだと思われる(票が操作されている、という物語が影響力を持つのは、その現れである)。
では、民主的な価値観に基づく一般的信頼は、なぜ低下しているのだろうか。「民主的な価値観にもとづいた一般的信頼の強さが学歴に影響されるという事実(数土2013a, 2013b)からわかるように、一般的信頼は社会階層的には偏在性をもっている。一般的信頼も社会格差とは無縁でなく、むしろ場合によっては社会格差を拡げてしまうことも懸念される」(p29)と数土は述べている。学歴や社会階層、格差などによって、民主的な価値観に基づく一般的信頼の強弱が異なるのだ。民主主義や社会について学び理解している人間の方が信頼しやすくなるというのは、分かりやすいことであろう。「リスク社会が抱え込む問題に民主的な価値観にもとづく一般的信頼を取り入れることで解決を図る場合には、同時にそこからこぼれ落ちてしまいかねない社会的弱者の存在にも十分に注意し、寛容をベースにした社会関係に彼らをどう包摂していくかが問われなければならないだろう」(p29)という結論部の課題が、今まさに前景化しているのだと考えられる。
不安や混乱、生活苦などは、社会の弱い部分においてより顕著になりやすい。それに対し、例えば産業構造の変化や、モダニティの問題である、などの「説明」で理解し「安心」を得られる人々と、そうでない人たちがいるのは、やむを得ないことであろう。彼らが、単純で分かりやすい物語に吸引されやすくなること、それによって「安心」を得たくなることも、理解可能なことである。社会は、あまりにも高度に複雑になってしまっているので、感覚的に理解しにくく、安心感を与えてくれにくい。だから、単純化した物語やカリスマへの帰依で安心や納得を得たいという動機が発生してしまう。だが、その物語は客観的な現実に反しているので、極めてシビアな衝突が起こらざるを得ない。
これに対する対策としては、大学を無償化するなどにより、高等教育をさらに普及させていくという地道な底上げが、真っ当な方法論として考えられる。また別の方法として、複雑な社会を分かりやすく説明するコミュニケーターを増やしていく方法がある。ギデンズの言う専門家と非専門家の「アクセス・ポイント」というのがそれだ。つまり、顔の見える彼らの対人的な交流から生まれる一般的信頼を通じて信頼を醸成する方法がある。もうひとつは、いわばホワイトなカリスマや宗教者という方法論である。物語や宗教やカリスマを求める心理をとりあえず満たし、安心の感覚を与えつつ、世界に対して破壊的ではない方向に導くような「教え」を、たとえば宗教やスピリチュアルなどの語彙で伝達する方向性があると思う。
親密性と愛着への飢餓
一般的信頼は、エリクソンの言う基本的信頼と深い結びつきを持っていると考えられる。ギデンズは、基本的信頼や親密性について繰り返し言及しているが、それは存在論的安心や信頼を得るためのポイントとして重要だと彼が考えているからだろう。
「人間の初期の発達段階では、自己のアイデンティティの安定した状況と自己を取り巻く環境に対する基本的信頼――存在論的安心感」は「人格に対する信頼に由来しており、この人格に対する信頼が、何らかのかたちでおそらく終生持続する他者の信頼性に対する欲求を生じさせていく」(p142-143)。顔の見える人格との相互作用による「信頼」は、「非人格的な原理」「抽象的システム」に対する信頼をつなぐという。ギデンズがここで論じているのは、「アクセス・ポイント」となる専門家についてだが、おそらく、親を始めとする親密な関係により形成される基本的信頼は、一般的信頼やシステムや専門家への信頼をも養うことになるのだと推測される。
ボゥルビィの愛着理論とそれに基づく研究に拠ると、育成環境が悪く、親やそれに準じる者との愛着の絆がうまく形成されないと、愛着障害や、不安定な愛着スタイルになる確率が上がる。どちらも症状として、他人を信頼できない傾向や、他者に心を開けない傾向を持つことが多い。岡田尊司「崩壊家庭における愛着障害」(『みらい』vol.2)に拠ると、「近代的な社会」ほど回避型や抵抗/両価型と呼ばれる、不安定な愛着スタイルの者が増えるという。それは、ギデンズの言うように、社会が「抽象的システム」で動く部分が多くなり、地域共同体その他における人格的・対人的な愛情を伴う接触が、成育環境において乏しくなっているからであると推測される。
ギデンズは「信頼できる他者を得たいという強い心理的欲求は、つねに存在するが、近代では前近代の社会的状況と比べた場合、制度化された人格的結びつきを欠いている」(p149)。だから、システムは、信頼や満足、愛着の満足を与えず、人間を「疎外」してしまう。そう感じる人が増えてしまう。だからこそ、家族や恋愛やファンコミュニティ、推し、陰謀論やイデオロギーによる集団の、心理的な価値が高まって感じられるのだろうと思う。それは、親密さを与えてくれる空間であり、愛や安心の感覚への飢餓を満たしてくれる場なのだ。それは、仕掛ける側も理解している。元電通の佐藤尚之は、ファンの集まりを組織するマーケティング手法について、以下のように述べている。「ファンミーティングで『ファンがどこを好きで何を喜んでくれるのか』を知った次に大事なのは、ファンからの支持を強くしていくこと。そのために重要なのは、『共感』『愛着』『信頼』の3つを地道に強くしていくこと」(「ファンベースを強化する3要素は「共感、愛着、信頼」『ファンベースの時代』)。同様の方法論は、政治的な党派、反社会的な集団、過激派やカルトなども用いることができる。
自分を疎外する「システム」より、心を満たしてくれる親密な人格的関係を求めてしまう飢餓を人間の心が持ってしまうのは、脳のデフォルトなのだろうと推測される。そして、恋愛や友人などの関係性により親密さを構築することの難易度は、前近代よりも高まっている。現在は男性の生涯未婚率が30%近くに急上昇している。 ベンジャミン・クリッツァーが『モヤモヤする正義』で述べるように、「親密性の欠如」を重要な問題として論じなければいけない状況の背景には、存在論的安心や親密性を得にくくなったという社会の変化があるのだと考えられる(だから、「非モテ」「弱者男性」、ジェンダーや生殖などが政治的な争点になるのだと考えられる)。コスパに異様に拘り、効率化とシステム化が急速に進む社会の中で、ホスト狂いや、推しに大金を払うなど、単純な物質的生存の観点からすればコスパが悪い経済行動が隆盛するのも、両者が随伴する現象だからだと説明できるだろう。孤独な者にとっては、推しや二次元のキャラクターは、ただの趣味というレベルではなく、このシステム化され殺風景で非人格的な社会において、愛着や親密さを、ひいては世界への信頼を回復する、精神的なレベルでの生死に関わる重要性があるのだと感じるのだろう。
システムや専門家への一般的信頼が低下する背景には、多くの人々の成育環境の変化で基本的信頼・安定的な愛着が形成できなくなっていることがあるのかもしれない。あるいは、恋愛や家族形成の難易度の上昇により、直接的な対人関係により愛着や信頼を日常的に作ることが困難であり、孤立し社会的排除を受けている者が増えているのかもしれない。その場合、ファクトチェックなどの短期的な対処では、長期的には解決できない可能性が高い。
その根本的な信頼・愛着の問題に対処するためには、根本的な社会のあり方が変わる必要があるのだが、中短期な方法としては、ケアやカウンセリングの普及、虐待防止、子育てへの介入、地域共同体の再帰的な構築、教育制度の改革、ソーシャルスキルトレーニングの普及などの方法論により、愛着や信頼を形成し安定させる方向性を、長期的には社会は採らねばならないのではないか。
あるいは、SNSでのコミュニケーションや、二次元やアイドルなどの架空の存在との「推し」などの愛着関係が基本的信頼・一般的信頼を醸成しうるのか否かなどを調査し、その結果に基づいて解決の方法を探っていき、介入していく方向性が考えられる。