なぜ多くの人々がデマや偽情報を信じたいと思ってしまうのか?――性的抑圧とファシズムの結びつきについて

危機に陥ったリベラル・デモクラシー
2016年のトランプ大統領の当選に、ロシアからの選挙介入があったことをアメリカ政府は公表しているが、2024年のトランプ当選もおそらくはロシアからの長期間の世論工作などの結果なのではないかと、トランプ政権のロシアに有利になるアクションの連発から推測される。イギリスのEU離脱や、ドイツのAfDなど極右の伸長にもロシアの選挙介入が指摘されている(福田直子『デジタル・ポピュリズム 操作される世論と民主主義』)。
イーロン・マスクのXにおけるプラットフォームのコントロールの仕方や、「影の大統領」であるピーター・ティールの会社による監視・管理システムなどのことを考えると、アメリカがデジタル独裁やテクノ封建制に陥っていき、ドイツからEU圏も崩れていき、リベラル・デモクラシーが風前の灯になる状況も想定される。そのとき日本はどうなるだろうか?
陰謀論や偽情報による世論工作の存在や、国内における様々な問題に対する不満や鬱屈こそが人々に火を付け、ポピュリズム的に暴走させる「種」であるということは、多くの者が知的に理解しておくべきだろう。ファクトチェックや、ネットの規制なども検討するべきであろうし、リテラシーも高めていくべきであることことに異論はない。しかし、アメリカは、それらを日本よりも先に議論し、進めていたのに、現在のような状況になってしまった。とすると、そのような小手先の対処だけで解決できると考えるべきではなく、もっと深いレベルにある問題にも手を付けなければいけないのかもしれない。
論理や事実が世論に影響を与えにくい時代
論理的に説明しても、事実を説明しても、それが意見や政治的見解を変えない現象が頻発している。論理や事実が政治的見解に影響を与えず、感情や情念が強い影響を与える状況を「ポストトゥルース」と呼び、2016年にオックスフォード辞書が「今年の言葉」と呼んだ。
必要なのは、その意見の形成に影響を与える「感情」「情念」はどういうものなのだろうかに踏み込んで分析することである。拙著『現代ネット政治=文化論』や本サイトの記事などで、その一部を試みてきた。
今回は、少し目先を変え、少し古い理論であり、現在では批判や修正がなされていることも承知で、ここで、オーストリアに生まれ、一九三〇年にドイツに移り住み、ナチス・ドイツの発展をリアルタイムで経験し、分析の対象にしてきた、ヴィルヘルム・ライヒの『ファシズムの大衆心理』(一九三三)を参照したい。古いことは古いのだけれど、現在の状況を解釈する際に「使える」ように見える箇所があり、同時に、あまり今では省みられない理論であるだけに、現在の状況が起こってしまった「盲点」を補うヒントがあるかもしれないと思うからだ。
「自由主義」(リベラル)による抑圧がファシズムを生んだ?
ナチス・ドイツを、当時の労働者や中産階級が支持する「不合理」な現象が生じ、それを「ヒトラー病」や「集団狂気」などと言って片付けようとする論者に対して、ライヒはそれではいけないのだと警告する。問題は「なぜ大衆が、デマゴギーを受け入れたり、混乱に落ち入ったり、精神病状態にかかったりしたのか」(上、p79)であり、「なぜ大衆が政治的ペテンにひっかかったか」(同、p80)をこそ分析しなければいけないと述べた。そのために、大衆の「非合理」な「神秘主義」的な思考の中に分け入っていく必要を述べている。
そこで描かれているファシズムの状況は、現在を髣髴とさせる。たとえば「ファシストの思考法は、新しい権威を熱望し同時に古い権威に叛逆する、総じて服従的な『小人』の思考法である」(同、p13)という点は、「保守」でありながら既存の秩序を破壊するトランプに熱狂する人々や、既存の議会などを破壊してくれるように見えているだろう石丸現象・斎藤知事・日本維新の会の人気と重なって見える。
その「ファシズム」の発展は、「自由主義」(=リベラル)が抑圧したせいだとライヒは言う。人間の自然な生命の部分まで、過度に抑制しようとしたことが、反動を生んだのだと。「インチキな自由主義(わたしはここで、言葉の正しい意味での自由主義と寛容を述べているわけではない)の、みてくれだけのカッコよさに対する虐待された人民大衆の叛乱」(同、p14)なのだと。アメリカや日本でよく聞く「リベラル」批判の声と相同だろう。
ライヒのユニークな点は、ファシズムを支持する人々が、自分にとって損になる体制を敢えて支持する不合理な政治的選択を、権威主義的な人格に由来すると述べており、その権威主義の原因は、性欲の抑圧であると考えている点である。
フロイトの理論を参照して、ライヒはこのように言う。性的「抑圧はむしろ、総体的に文化形成の後期に出現する。それは権威主義的な家父長制や階級差別の発展の時期に対応している」(同、p68)「児童における自然な性欲、ことに性器性欲の抑圧は、権威主義的意味で、児童に、不安、内気、従順、権威についての畏怖、『よしとされる行為』、『適応の仕方』を教える。このような抑圧が、権威に反抗しようとする力を麻痺させるのは、いかなる反抗も、権威に対する挑戦に不安をもたらさずにいないからである。抑圧は、児童における性的好奇心や性的思考の制止により、思考や批判能力の一般的制止を招来する」「権威主義的な支配構造の形成は、性的な欲求実現の禁止と性的不安で固定される場合に可能となる」(同、p69)
性的な抑圧や禁止は、父などによって行われる。そこから、権力を持つ存在に従順になり、欲望を感じたり考えることすら抑圧する性格が形成されていく。それを破ろうとすると、不安や恐怖感が芽ばえるようになっていき、考えることや批判することまで出来ないようになっていくという。
このような「性的抑圧」がファシズムの原因となる権威主義的な性格を生み出し、抑圧された性欲が、人種差別など政治的な形で噴き出すのだとライヒは考えている。「ファシズムという名の神秘主義が、神秘化された条件のもとではオルガスム願望の変形であり、自然な性欲の意識的な欲求実現の禁止を意味する」(同、p21)
筆者はこれを読んで、日本におけるフェミニストと、「表現の自由戦士」たちの争いを思い出した。日本におけるSNSでの反フェミニズム運動は、性的抑圧に対する反発や反動を動機とし、政治的に組織されているように見える。アメリカでも、インセルや男性中心主義者たちなど、性的に恵まれていない人々が、ファシズム的な体制の支持に向かわせている。「インセル」とは「involuntary」(非自発的)な「celibate」(禁欲)からくる造語だが、その禁欲がファシズムに向かってしまうのは必然なのかもしれない。
そして現在において考えるべき点は、ライヒは性的抑圧を「家父長制」と結びつけたが、一般的にフェミニズムにおいて家父長制は敵と見なされることが多い。にもかかわらず、禁欲的なタイプのフェミニズムは、権威主義的パーソナリティを生み出すという点において、家父長制と同じように機能し、ライヒの理論のロジックに従うなら、権威主義やファシズムを生み出すことになってしまうということである。
性的抑圧は、女性の方が強く、だから女性の方が権威主義を内面化し、従って女性たちが多くヒトラーの党を支持していたのだとライヒは書く。女性の性が抑圧される理由は、「産む性」「母」として聖化されその機能を最大化させるためであり、性欲の側面は「売春婦」扱いされ抑圧されていた。そして、「女性の性に対する不安感を巧みに利用した」(同、p180)プロパガンダキャンペーンが行われた。今でも、アメリカの右派が行っているレトリックそのものであり、不安を利用するプロパガンダはトランスジェンダーに関係して行われている手法である。
性欲と権威主義の結びつき、そして不安感や何を信じていいのか分からないことのつながりを、ライヒはこのように言う。「自分の性欲を恐れるのは、自然なままに性欲が生きているという事実を学んだことがないからである。つまりかれは自分を信用できないのだ。それゆえかれは、自分の行動や決断に責任感を失ない、第三者の指導を要求するようになる」(同、p182-183)
リベラル・フェミニズム・ポリコレが、
権威主義的パーソナリティを生むメカニズム
もしライヒの見解が正しいのだとすると、皮肉が存在しているのは、いわゆる「リベラル」「フェミニズム」「ポリコレ」の(性的)抑圧こそが、ファシズムを支持する権威主義的な性格の形成に寄与したのではないかと思われることである。性的抑圧に限らず、人間の身体が持つ欲望や欲動を過度に知性や理性でコントロールしようとする傾向それ自体に、生物として反発する側面があり、それが政治的に利用されているということなのだろうと理解できる。
ある種の「閉塞感」や「包囲されている」感じ、「EXIT」する出口を求める加速主義の思想などは、このような欲望論の観点から理解することが可能かもしれない。つまり、身体や欲動が抑圧され、神経症的な状態になっているのであり、そこから逃れるために、それを破壊し、外部に「EXIT」したいというのは、オルガスム願望の形を変えたものなのではないだろうか。
別にこの世界の中に生きていたって、そこで自由にのびのび生きて居られて、幸福や生の満足や充足を得られていたら、わざわざ加速して外部を目指したりしなくても良いはずである。しかし、そう感じられないような生の状況があり、それは単純に経済的な理由だけではなく、性と神経症が絡み合った「気分」の問題かもしれない。トランプ政権が、LGBTや女性の性の自由に対して禁欲的な方針を取っていることを見ても、ナチス・ドイツとの類似性は明らかであり、それは性欲の抑圧を通じた権威主義的なメンタリティの促進を狙っているのではないかと推測することが可能だろう。
そのような抑圧を感じ、そこから出たい、性的オルガスムを感じられる自由な主体になりたいという願いと、権威に対する不安や恐怖や怯えと従順が同時に強く相克するとどうなるか。強く、自由である(=ルールや枠を破り、性的に活発である)ように見えるカリスマと自己同一化し、自身の客観的な境遇から仮想的・想像的に逃れようとする心理的な自己欺瞞を出口として作り上げてしまう。それが、ダブルバインドから逃れるための唯一の手段であると錯覚されてしまうからだ。「権力、たとえば会社なり国家なり民族なりと自分との同一視」(同、p94)によって、人々は、自分の客観的な屈従を忘却してやりすごす。それは非常に根深く、客観的に損失があってもなかなか消えないのだという。
それは、私たちが、現実では自分は全くそうではないスーパーヒーローやヒロインをフィクションで見て、同一化し現実の憂さを忘れるのと類似した現象である。ただし、現実のカリスマとの同一視は、エンタメを鑑賞するときとは違い、現実とフィクション、感情移入と自分自身の現実の姿との区別を極度に失った病的な状態になりがちである。
身体の本能を解放し充足させる文化の必要性
ライヒの理論は、一九六〇年代のカウンターカルチャーに大きな影響を与えた。新左翼やカウンターカルチャーの理論的な背景のひとつでもあった。性の解放や、日本におけるエロ文化の発展にも少なからぬ影響を及ぼした。なんでもかんでも性的に解放すればいいわけではなく、そこには無数の落とし穴や問題があるという経験の知も積み重なってきた今、ライヒの理論をそのままに受け取ることは難しいが、なぜ世界の右派が性や家族や結婚をコントロールしたがる傾向を持つのかがよく分かるだろう。
ロマン主義的な恋愛や性愛の強い衝動が理性を超えることは、フィクションのみならず、現実においても経験的な事実として多くの人は知っていることだろうと思う。そのような衝動や欲望が、抑圧され、政治的な水路を出口として人を動かしているのだとすると、それは理性や論理による説得は効きにくくなる。そして、秩序や啓蒙に対しても、欲動の満足を邪魔しようとするものとして敵意を持つだろう。それは、フロイトが、文化=啓蒙への不満として、論じた通りである。
フロイトやライヒの理論がそのまま現在に使えるわけではないが、このように思考した彼らのように、現在の「神秘主義」「不合理」の心理・情動・欲動面に入り込み分析していく必要がある。そのために使える実証的な研究なども無数にあることだろう。そしてその上で、欲望や欲動や愛着の部分まで計算に入れて(おそらく、家族・教育・文化・芸術などの領域を総合的に考えて)どうすれば情報工作や陰謀論やポピュリズム・ファシズムの脅威から民主主義を防衛できるのかを考えていくべきであろう。
解決策の方向性として示唆したいのは、身体の本能的な欲望・欲動を解放し、可能な限り満足を得られる社会に文化を変えていくことである。「欲望・欲動」とここで言っているのは、性欲に限定はされないし、乱交パーティをしよう、みたいな話に誤解されると困るからである。ライヒが言っているように、動物としての人間が本能的・生物的に持ち、理性や法などで抑圧しきることが困難なものとしては、性欲だけでなく、「社交」などもある。人と直接会って話すことが精神的な幸福に繋がり、心身の健康に良いことを示す無数のエビデンスがある。あるいは「承認欲求」などもそうだろう。群れの中で進化してきた人間の身体や脳が「そうできている」性質というものは確かにある。前回までに論じてきた「愛着」もそうだろう。それらを可能な限り満足させ幸福や安心感を得られれば、わざわざ既存の体制や秩序を壊して「EXIT」しなければいけないなどと思わなくなるはずである。呑んで騒ぐとか、めいっぱい身体を動かして遊ぶとかでもいい。
カリスマや民族・国家などとの自己同一視を防ぐためには、自分の「弱さ」を認め、自分で自分自身をケアしたり、相互にケアし合うことも必要であろう。強い存在と自己同一視することで忘却し否認している自分自身に立ち返り、その痛みを受け入れるためには、助けが要るだろう。
これから日本が、どの陣営の仲間になろうとするのか、分からない。ひょっとすると、ファシズム・権威主義・独裁の方向を選んでしまうのかもしれない。しかし、筆者は自由と民主主義を愛するし、そうである日本を守りたいと思う。そして、そのために必要なことをしていくべきだろうと感じる。ファクトチェックやリテラシー教育は、そもそも「事実」「論理」「教育」に反発する情動や衝動が強くなっている場合に、機能するのが難しい。だから、そもそもの情動の部分にアプローチしていく必要がある。その際、愛着や欲望、恐怖心や罪悪感などや、大衆心理について考えられてきたこれまでの知見を、安全保障や偽情報対策と総合する方向性が必要なのではないだろうか。