シリア紛争における“認知戦”の経緯〈要約〉

本稿は、新領域安全保障研究所の2025年度委託研究として、黒井文太郎氏に依頼した研究レポート(本編)を要約したものです。シリア紛争の認知戦の経緯と認知戦の活動主体であったサイトやメディア、インフルエンサーやジャーナリストの動きを詳細に追跡し他国への影響まで分析した本編は、当研究所の協賛企業・有償会員にのみ配布される予定です。また、その全容は、6月19日(木)に開催される第2回講演会で発表されます。
人は自分が受け取る“情報”から状況を認知し、どう行動すべきかを考える。それを利用する戦いが「認知戦」だ。フェイク情報も含めてさまざまな情報を武器化し、人々の意識/認知を自分たちに有利な方向へ誘導するのだ。
認知戦の対象は“敵方”に限らない。“国際社会”を対象に情報を操作し、自分たちの味方を増やす工作もある。こうした工作は、国際紛争ではどの陣営も行なうが、とくに、より理不尽な弾圧や殺戮を行なっている側、すなわち“事実を隠したい側”が力を入れる。
その典型例が、2011年から2024年までの長期にわたった中東・シリアの紛争だ。2011年3月、“アラブの春”が波及してアサド独裁政権に対する民主化運動が始まったが、それを独裁側は武力で弾圧。反体制派が抵抗し、大規模な紛争となった。その過程で、アサド政権の軍/秘密警察は反体制派が押さえている地域を徹底的に爆撃・砲撃し、多くの国民を無差別に殺戮した。自分たちが制圧した地域では、多数の住民を拉致・監禁し、拷問・処刑した。したがって、正確な情報を隠蔽して偽情報を拡散したのは、圧倒的にアサド政権側が多かった。反体制派の側は、事実をそのまま世界に知ってほしいので、わざわざフェイク情報工作する必要性がない。
もっとも、その認知戦をアサド政権は単独で行なったわけではない。アサド政権を支援するロシアとイランも行なった。中でもロシアは認知戦に長けており、大きな影響力があった。
アサド政権は国営通信社『SANA』、ロシアは国営メディア『RT』、イランは国営TV『Press TV』を中心に、それぞれ多くの官製メディアが、認知戦の主要ツールとなった。イランの事実上の配下であるレバノンの民兵組織「ヒズボラ」系の衛星テレビ『アル・マヤディーン』なども使われた。それらのメディアは当然、アサド政権やロシア、イランの各工作機関の監督下にある。
そして、こうしたメディアで発信されたフェイク情報は、「大手メディアで報じられたから事実だ」とSNSで拡散された。ときにSNSでは、もともとのメディア報道の内容を故意に歪曲して拡散することで、フェイク誘導を強化する手法も使われた。
もっとも、サイバー空間を主戦場とする認知戦では、国家機関の工作の痕跡を証明することはきわめて難しい。情報発信者の身元を偽装するのが容易だからだ。アサド政権を擁護する誘導工作に国家の工作機関が関与していたエビデンスはほぼ残されず、工作の実態の全体像は不明だ。
認知戦の主体は反米陰謀論サイト/インフルエンサー
サイバー空間でのアサド擁護のフェイク情報誘導の実態を細かく検証すると、反米陰謀論系のサイト/インフルエンサー/ジャーナリストが活動主体になっていた。反米系なので『ボルテール・ネットワーク』『Global Research』『デモクラシー・ナウ!』などの左派活動家系のサイトや、その周辺の人物がメインだが、陰謀論ということで『Infowars』『Zero Hedge』『Mint Press News』など右派も含めた米国の大手の陰謀論サイトもあり、それぞれが互いに引用するなど、シンクロしながら拡散していた。イラン工作機関のダミーとみられる『アル・マスダール・ニュース』『アメリカン・ヘラルド・トリビューン』なども参加していた。多くのケースで、アサド擁護の言論活動をする以前から、ロシアが仕掛ける陰謀論の拡散を行なってきたサイトや人物が多かった。つまり、ロシアの影響下にあるサイトや人物が、そのままアサド擁護誘導工作に組み込まれたという構図である。
個人のインフルエンサーには、ブロガー、ポッドキャスター、ユーチューバーなどがいたが、そんなインフルエンサーが『RT』などで寄稿の機会を得て、外見上は“ジャーナリスト”に格上げされた人が何人もいた。こうしたロシア国営メディアのプロパガンダ情報拡散は、ロシア工作機関「連邦保安庁」(FSB)が監督していると推測されるので、そのインフルエンサーが「フェイク情報を拡散する作戦に利用できる」と評価されたのだろう。中には、ロシア情報機関「対外情報庁」(SVR)の情報工作用メディアだと米財務省から制裁を受けたWebメディア『New Eastern Outlook』(NEO)が使われたケースもあった。
何人かのインフルエンサーは、外国人記者の国内取材を厳しく制限しているアサド政権にシリアに招待され、軍・秘密警察の案内で取材を行ない、政権が誘導するままにアサド擁護記事を連発した。外国人の入国とその監視は、シリア外務省ではなく秘密警察「総合情報局」(ムハバラート)が担当する。当然、ムハバラートが企画した認知戦の作戦だろう。中には、ニューヨークの国連本部でシリア代表部が「大事な記者会見がある」と称して記者を集めておき、実際はインフルエンサーが登壇して一方的にアサド擁護のフェイク情報を語ったこともある。そして、それを「国連本部の会議でシリアの実情が確認された」とロシア工作機関の影響下にあるメディアやSNSアカウントが連動して拡散した。こうした工作では、シリアとロシアの工作機関が関与していた可能性がきわめて高い。
アサド政権にシリア取材を許され、軍・秘密警察が描いたストーリーどおりの記事を書く西側の著名ジャーナリストも数人いた。これも当然、シリア工作機関の工作だろう。著名なメディアとしては、英紙『インデペンデント』『ガーディアン』、ドイツ紙『フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング』『ディ・ヴェルト』などのケースが確認されている。
現在も活発なSNS誘導工作ではイラン工作機関の影も
アサド擁護の認知戦は、SNSを主戦場にサイバー空間では大きな成果を上げたが、前述したレアなケースを除いて西側の主要メディアでは主流にはならなかった。シリア情勢をきちんと追うメディアは多く、現地のいわゆる“市民ジャーナリスト”たちも命懸けで情報を送り続けたからだ。民間OSINTグループの「ベリングキャット」のような存在もあった。
ただ、米国の陰謀論サイトで好意的に伝えられたこともあり、プーチンを支持するような層の一部からアサド政権が擁護されることもあった。たとえばプーチン支持者の米下院議員だったトゥルシー・ギャバードなどはシリアを訪問してアサドと会談した。彼女は現在、トランプ政権で情報活動を統括する「国家情報長官」というトップクラスの要職に就いている。
ところで、西側の国で最もアサド政権の認知戦が成功したのが、日本である。日本では大手メディアがしばしば米国や反体制派に問題の主原因があるかのような、アサド政権側に有利な解説を発信したが、そんな国は西側主要国では日本だけだ。メディアや研究者をアサド擁護に誘導したり、在日シリア大使館を通じて政界や自治体など各方面に浸透したりするなど、アサド政権の対日工作は、他の西側主要国への工作より格段に成功していたと言っていい。日本ではシリアの関係者がきわめて少なく、あちらの事情がほとんど知られていないため、認知戦に耐性がなかったということだろう。
アサド擁護誘導の認知戦は、このようにシリア紛争の全期間を通じて行なわれたが、2024年12月にアサド政権が打倒された後も、実は激しい誘導工作が続けられている。旧アサド政権の残党が、新政権を揺さぶるために、人々の疑心暗鬼を扇動するフェイク情報をSNSで盛んに拡散しているのだ。新政権が対立する宗派の国民に暴力行為をしているとして、過去のアサド政権時代に政権軍が行なった暴力行為のシーンの画像や、まったく無関係の他国の画像を流すなどの不正な誘導行為がきわめて多くなっている。そして、そうした書き込みがシリア国内だけでなく、レバノンやイラクからも行なわれており、背後にシリア社会を混乱させ、新政権を打倒しようとするイラン工作機関が暗躍している形跡がある。
新政権をイスラム過激派だと思わせる誘導工作は、国際社会でシリア新政権の印象を悪化させることも狙っている。事実上の同盟関係にあったアサド政権が崩壊したことに加え、ガザ紛争以来のイスラエルによるヒズボラへの打撃もあって、イラン工作機関の活動範囲は大きく制限されている状態だが、ネットを使う認知戦では、経費も人員もそれほど必要ない。今後も大掛かりな誘導工作が続けられるはずである。