なぜ女性たちは、ナチス・ドイツを支持したのか

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「リベラル」がファシズムを招いた逆説

 前回、ナチス・ドイツにおけるファシズムの発展を性の観点から分析したライヒの『ファシズムの大衆心理』を参照し、現在の「大衆心理」を理解する参考にした。今回も、その延長線上で、現在の「リベラル」「フェミニズム」への反動が、性や男性性を巡る陰謀論的な物語と結びついて蔓延し、トランプ支持になりファシズム的状況を招いている現在について考えていくことにしたい。

 論理や証拠で説得できない者たちが増えていき陰謀論が跋扈するのがポストトゥルースであるが、それが蔓延する土壌となる大衆の心理、彼らの生活の背景がある。それを解き明かさなければならないというのが、ナチス・ドイツに「リベラル」が敗北しつつある時期のライヒの分析だった。「国家社会主義は曖昧な革命感情と同時に反動感情を抱いている大多数の労働者、ほとんどの失業労働者、若者を結集するのに成功した」(上、p163)。そのナチのプロパガンダは「矛盾で一杯だった」。

 貧困などを訴えかけ、支持している政党や人物がやがて自分たちの首を締めるのだと説得しても効果がなかった理由として、ライヒは「神秘主義」を挙げる。「神秘主義」と言うが、要はロジックや証拠に基づかない、感情的な判断のことである。例に出ているのは、若者の苦しみの原因を戦争とドイツの賠償にあるのだ、というような、単純で分かりやすい悪と原因を断言することである。今で言えば、「スカッと」する「悪」「原因」を断言してもらい、自己正当化したり希望を見出すことがそれに当たる。

「科学的啓蒙の活動は、大衆の知性に訴えるだけで、情緒に訴えかけなかった」(上、p196)。「神秘的感情」を抱いてしまうと、崇拝の対象の悪行や不正が暴かれても「無関心」になるとライヒは言っている(現在とよく似てませんか?)。

 共産党が貧困などを訴えかけたが大衆の心は動かず、ナチスが勝利したのは、性や文化に訴えかけたからだとライヒは分析している。「たとえば若い労働者の飢餓についての要求はそれほどでもなく、むしろかれらは、性的・文化的要求におびただしい悩みをもっていた」(上、p122)。

 「文化戦争」と呼ばれる現状を理解するためにも、この分析は参照する価値があると思われる。日本におけるフェミニズムと「表現の自由戦士」たちの戦いにおいても、アメリカでの男性至上主義者たちやマノスフィアにおいても、性と文化が政治的争点になり、人々を動員していることは明らかだからだ。ライヒの議論には現在の筆者から見て頷けないところもそれなりにあるのだが、それは後回しにし、彼の議論を追っていこう。

なぜ女性たちがナチス・ドイツを支持したのか

 前回確認したように、ライヒを参照することで我々が得られた現在の主流の価値観からは「意外」である知見は、リベラルやフェミニズムが性の抑圧を行うという点において、「家父長制」と構造的に類似の機能を果たしており、そのような性の抑圧こそが権威主義的パーソナリティを生み、カリスマと一体化したり批判的思考が抑制されるような大衆を生み出す可能性である。

 その議論――歴史を、ライヒの議論を参照して追ってみよう。

 現在起こっているファシズム現象においては「インセル」などと呼ばれ、男性が議論の対象になっているが、ナチス・ドイツにおけるファシズムの原動力となる「権威主義」は、女性が多く担う傾向があった。ライヒはその分析に多くの紙幅を割いている。

 女性が権威主義になりやすかったのは、女性の方が欲望を抑圧されやすい社会だったからである。ナチス・ドイツは「母」を賞賛し、売春婦を汚いものと見下すイデオロギーを流布しており、それらが女性の支持を呼んだ。

「ヒトラーの党派」が「女性票の支持を獲得した」のは、性欲を持つ女性を否定し、「母性」を強調したからであるとライヒは言う。「女性にとっては、かの女たちの性的欲望の抑圧によって権威主義的な家族強化を意味し、このような状態におかれている女性たちが男性に反動的影響をおよぼし、性的に抑圧されこの抑圧を許した数百万の女性における反動的な性・プロパガンダの効果という問題も含んでいる」(上、p178)「母性と性欲の実在する対立の抹殺、要するに権威主義的イデオロギーがかの女たち自身のものだったからにほかならない」(上、p179)「性的反動は、実際あらゆる可能な方法を使って、女性の性に対する不安感を巧みに利用した」(上、p180)。このような女性の性への不安感を利用するプロパガンダは今でもたくさん見られる。

 そして、性的に抑圧され、性的に貧困な者たちをヒトラーは利用したのだとライヒは語る。

「ファシズムの有するエロティックで興奮を呼びさます形態が、社会的責任を考えたことのない性欲を失った中産階級の女性や、性的葛藤のため仕事が手につかず社会的責任の意識を成長できずにいる女子店員に、一種の性的満足を与えているのは容易に理解できる。これら数百万の社会的に抑圧された非政治的人間の生活を理解しなければならぬ」「性的貧困の無能性をどうやったら利用できるかを、ヒトラーは明らかに知っていたといってよいであろう」(上、p305)

 ライヒはこう言う。「純潔が強制されると女性は性的欲望を押えられてかえって身もちが悪くなる。男性の自然なオルガスム感覚は、押えられると猛だけしい性欲にすりかえられ、女性には性行為がなにか卑しいものであるかのような感情を植えつける」「性的罪悪感は自然なオルガスム過程を阻害する。性的鬱積のこの結果と、せきとめられた性・エネルギーは、あらゆる種類の病理的経路をたどってはけぐちを求める」(上、p150)

 その「病理的経路」こそがファシズムであり、民族主義、ホロコーストにつながっていく人種理論である。では、それはどのような心理的メカニズムであったとライヒは分析しているだろうか。

家父長制の性欲と、母権制の性欲

 家父長制は、性欲を抑圧する。その結果、権威に従順で、不安であり、批判精神を持てない「権威主義的パーソナリティ」が形成される。性的な欲望は卑しく汚いという感情が禁欲に随伴して生じ、それが人種理論に結びつけられていく。

「家父長制・性秩序は、性的解放を求める女性、児童、青年から自由を奪い、性欲の代償に商品を生産させ、さらに経済的圧迫によって性欲を押さえて、権威主義イデオロギーの土台を形成した。このような環境下での性欲は、事実上、制限されなければならない魔性のものに歪められた。家父長制の要求する圧力下で、母権制の正常な感覚は、卑しい要素をもつ錯乱状態とみなされた。ディオニソス的なるものは、『罪深き欲望』、家父長制文化によって混沌とした『不潔な』ものとしてしか体験できない欲望に歪曲されてしまった」(上、p149)「家父長制的人間は、『性的なもの』が、『不潔』で『下等』で、しかも『デモーニッシュなるもの』とわかちがたく結びついているという迷信のとりこになる」(上、p150)

 そして導入されるのは、「家父長制」における性欲と、「母権制」における性欲であり、前者は歪んだ人工物であり、後者は自然で健康なものとされる。「自然な(母権的社会における)性欲」と「家父長制社会における特殊な性欲」の区別において、多くの女性が忌避した「性欲」は、前者であり、後者とは違う、「この不潔とされた性欲が自然な性欲でなく、家父長制社会における特殊な性欲だという事実」(上、p151)が見落とされていることを指摘する。

 母権制社会では、女性の性欲の抑圧はそれほど多くはなく、「自然な」性欲の満足があったとライヒは考えている。社会の抑圧的なヒエラルキーが形成されたのも「家父長制」のせいだと彼は考えており、おそらくそれは現在で言う。新石器時代の農耕革命で社会的ヒエラルキーが形成される以前と以後に対応しているのではないかと思われる。「権力と富の民主的なクランから権威主義的な長への移行が、社会成員の性欲の抑圧により達成された」ので「性的抑圧は、社会の階級分別の本質的な部分となる」(上、p152)。

 そして、母権制社会において、宗教と性は対立しておらず、キリスト教的な神が監視し罰するというような罪の意識もなかったのだと言っている。

「いっさいの家父長制支配下の社会の根本的な宗教思想は、性的欲求の否定を意味している。ごくわずかの原始宗教においてのみ、熱心な信仰と性欲との同視がみられる。母権制から家父長制と階級社会への移行期に宗教の礼拝と性の礼拝の結合が分裂を経験した」「やがて性の礼拝は絶滅してしまった」(上、p233)。

「宗教と性欲の関係は、家父長制の出現とともに一変してしまった。つまり家父長制以前の時代には、宗教とは、性欲の表現形態であったのだがのちに性欲の敵とみなされるようになったのである。母権制下の未開人にみられる性―肯定の『神秘主義』は、家父長制下の人間の神秘主義にみられるような性的抑圧をともなわない」(上、p218)

「起源から考えてみても、また本性から考えてみても、性的快楽とは、立派な、美しい、幸福なことだし、人間を全自然と結びつけるものである。性的感情と宗教感情の分裂以来、性的なものは、必然的に邪悪で非道なものにされてしまった」(上、p236)

 性と宗教の複雑な関係については、島田裕巳『性と宗教』なども読んだが、筆者の手には余る。しかし、宗教の宗派によって考え方や感覚が違う、ということは確かである。

性の革命による崩壊感覚へ

 では、どうして性の抑圧が人種理論と結びつくのだろうか。それは、禁欲している自分たちと、そうではない異教的な人々という対立に基づく。禁欲している以上、葛藤が存在する。敢えて禁欲している自分が「より高い」と正当化したい心情が発生する。そして、禁じられた自由を謳歌しているように見える彼らに憎悪が高まる。それが、異民族や別の宗教を信じる者たちであり、「上と下」「優越と劣等」に錯覚されるのである。そして、常に脅かされているように感じる。

「国家社会主義では、正常な性欲の感覚を、『人種不和』の元凶に見立てて卑しむべきものとみなす。『人種不和』の元凶として価値低減を測るのは、家父長制の現行形態である帝国主義に一貫して適応する結果となる」(上、p151)

 そして、性的自由は、「文化の崩壊」と結びつけて感じられるようになる。

「この現象は、ある種の人たちには『既成道徳の崩壊』として印象づけられ、他の種の人たちには『性の革命』とし印象づけられる。いずれにせよ『文化の崩壊』感覚が、自然な性欲の噴出を通じて感覚的に理解される。なぜ主観的に『崩壊』として体験されるかといえば、その唯一の理由は大変動が日常生活における強制的道徳律をおびやかしているという事実に求められる」(上、p153)

 そのような「崩壊」感覚は、現代の日本を含む世界で抱かれているように見える。「数の上では多数の劣等人種が、数の上では少数の優秀人種を踏みつけるならば、人間に課せられたあらゆる高度の発展は終止符を打つであろう」(上、p134)という「文化の没落」の意識が蔓延する。これは、現在のアメリカでの白人至上主義、男性至上主義、ラストベルトの労働者たちが抱いている「世界の終わり」感覚と似ている。「置き換え理論」などが典型である。その「危機意識」の中で、防衛として様々な「異なる」人々の排除――殺戮が始まっていく。

 崩壊感覚、没落感覚は、他の感覚とも容易に心理的に混ざり合う。「肉体労働の価値低落――肉体労働が、反動的なホワイト・カラー労働より低く評価されること――は、労働者がそう思いこむ時、ファシズムの大衆心理を強化するのに役立つ」「この手口は肉体労働者の社会的な劣等感に訴えるものである」(上、p123)。これは、現在のラストベルトを思わせる。

 社会がヒエラルキー的になり、差別的で排除的になっていけばいくほど、そこに生きている人々は不安と恐怖に駆られるようになる。そうなればなるほど、自分が「劣等」ではないことを証明しようと差別や排除を行ったり、「大衆の成因と指導者との極端な同一視」「『総統』との完全な同一視によって、『劣等民族』と蔑称されないようにつとめる」(上、p140)ようになる。こうしてカリスマが出来上がる。そこには「神秘主義」があるので、どんな不正をカリスマが行っても気にならないし、矛盾も問題にならない。論理や証拠も機能しないのだ。

 ほぼ同じ心理メカニズムで、差別や暴力が行われるようになっているように見える。新自由主義や競争社会は、このような不安と恐怖をより高め、ファシズム的な状況を生み出しやすくなる効果を持つだろう。

抑圧された性欲から、マゾヒズム・サディズムへ

 その抑圧された性欲が、サディズム・マゾヒズムになり、差別や虐殺に通じていく。

「自然な性欲充足」が閉ざされると「無限に成長する願望」が生じる。「抑圧されたエネルギーは、積極的には、はけ口を他に危害を加えることで解消し、消極的には、罪悪感を育て、神秘的・宗教感情に水路づけをおこなう」(上、p317)

 その結果、マゾヒズムとサディズムが発生し、それが人種差別や、虐殺に至る大衆心情の基盤になるとライヒは考えている。

「受動的・同性愛は、積極性と攻撃性を受動性と被虐症的な態度に転化する」「被虐症的な態度とは、別の表現を借りるなら、家父長制・権威主義的神秘主義の大衆構造の基盤を決定する態度である」(上、p255)。「被虐症と受動的服従」こそが、その大衆心理の基盤であり、被虐性は加虐性に容易に転換する。

「性的に健康な若者にとって、女性とのオルガスム体験は、相手にとっても満足感と高い評価を与える」(上、p260)のだが、それが抑制されると「自然な性器的満足の意識的な欲求実現の禁止が、加虐症衝動を増大させるので、性的構造のいっさいは、加虐的になる」(上、p261)「性的満足を求める健全な性欲とその能力は、きわめて自然な自信を与える。他方、神秘主義的な人間は、人工的な自信を成長させる。国家主義的な感情に適例がみいだせるように、後者の自信は防衛機制に基礎をおいている」(上、p261)「反対に性器的性格の人間は、自発的に誠実であり、純粋である」(上、p262)。

 性風俗やアダルトビデオなどを見ると、このような加虐性や被虐症の表現に満ちている。それは、金銭を持ち相手を自由にする権限を持つ自分の支配性や力を満足させ、それに従うしかない――経済的理由であれ何であれ従属させられている――者を自由にする快楽が中心となっているように思う。金銭を介して男女が出会う領域においては、このような家父長制的で「人工的」な性欲が多いように思う。そしてその人工的な性欲は、人工的な自信を求める心情と結びつき、国家やカリスマと仮想的に一体であるという感覚を求めて纏うようになっていく。

 現在、世界中のマノスフィアで提示されている「男らしさ」とは、このような人工的で不自然な、極めて脆いものであるように見える。インセル=Involuntary Celibate=不本意な禁欲者たちが、このようなメンタリティになっていくのは、ライヒの理論的には必然なのかもしれない。ナチス・ドイツの頃には女性たちが「家父長制」により禁欲を強いられ、それがファシズムを支持する心理基盤を作ったのだとすると、現代ではそれが男女逆転し、男性たちの一部が、フェミニズムやリベラルのせいで不本意に禁欲させられ没落していくという危機感を抱くようになり、被虐性と加虐性を高めた人工的な自信を獲得すべき、「神秘主義」によるカリスマとの同一化や、弱い者への(自身も被害者であり危機であるという意識に基づく)攻撃に至らせているのかもしれない。

 だとすれば、どう解決すれば良いのだろうか。

「フェミナチ」と女性の解放の対立

 ライヒが正しいのだとしたら、性の抑圧を辞めるべき、というのが一つの答えになるだろう。

 ライヒはこのような解決策を提示する。「権威主義的家族制度」の中で、「女性は一個の性欲をもった存在として考えられる以前に、子供を生む存在としてのみ考えられる」(上、p174)、女性の「夫や父に対する依存状態は性的な存在であるという意識が、女性や児童から、可能な限り消失した条件のものとでのみ横行する」(同)。「女たちの性欲についての不安と罪悪感を生かしておく手段となる。女性を性欲をもつ存在に立ち返らせることほど、権威主義イデオロギーに脅威を与えるものはない。女性がこの事実を認識し社会がそれを肯定するならば、このイデオロギーはたちどころに崩壊する」(上、p175)

「女性の解放とは、なによりもまず性的な解放を意味することが明らかにされねばならない。大部分の女性にとって男性への経済的依存が重味になるのは、経済的依存自体に問題があるのではなく、本質的にはこの種の依存にともなって発生する性的な拘束のためであるのを理解しなければならぬ」「性的欲求を感じないほどその性欲を抑圧されている女性がいるのは、かの女がなんのためらいもなしに経済的依存を認めているだけでなく、この依存をむしろ肯定しているからである」(上、p301)

 女性を「母」にするのではなく、経済的・精神的な依存状態において意志や欲望を抑圧するのではなく、「性欲をもつ存在に立ち返らせる」こと、特に女性が認識し、社会が肯定することをライヒは解決策に挙げるのだ。

 少し話はズレるが、現在でも、このような性的欲望の自由と抑圧を巡る議論は、ネットで多く見られる。その禁欲を主張する派閥が、キリスト教、共産主義者、フェミニストなどと誤って帰属されることも多い。男性たちが構成員として多い「表現の自由戦士」たちの一部が、「フェミナチ」と呼ぶ言葉遣いは、このような性的欲望の抑止の側面に根拠があるのかもしれない。

 しかし、このライヒの「家父長制的性欲」と「母権制的性欲」の区別を補助線として引くべきかもしれない。「フェミナチ」を批判する主張の正当性の根拠を「ナチズム」「ファシズム」を防ぐことに置くのだとすると、「性の自由」を擁護すると言っても、女性を「不自由」にするタイプの思想では、むしろ家父長制や権威主義を温存し、力を与えてしまうものになりかねない。性風俗などに通う自由が男性にあったとしても、社会全体が家父長制的であり、女性の身体を所有し金や権力の力で自由にするというシステムである限り、おそらくはライヒの言う「自然な性欲」ではなく、ファシズムに陥りやすいこの社会の性的抑圧の問題は解決しないのではないか。

 「表現の自由戦士」たちの「フェミナチ」との戦いは、ライヒの理論からすれば正当性がある部分もあるが、それはおそらく間違いであろう。同時に女性の自由や解放をも擁護しなければ駄目であり、そうしなければファシズムとの戦いではなく、都合のよい女性への搾取の正当化になりかねない。これをピンポイントで批判するためには、性欲全般の否定や、男性に「原罪」があるというミサンドリーと混同されない言い方をする必要があるのだろう。

 そして、私たちは、家父長制的な人工的な性欲でもなく、様々な形で女性を支配(女性の社会進出を阻んだり、「女をあてがえ」)するのでもなく、互いの自由と歓びに基づく自然で健康的なセックスを取り戻すべきなのだろう(それこそが難しいことなのかもしれないが)。

「自然」で「健康的」な性愛は可能か

 さて、この理論を念頭に、現在を考えてみるとすると、どうであろうか。

 昨今、オタク文化やジャニーズなどで、女性の性欲が比較的肯定される社会になっており、「女性用風俗」などもある。だが、性の自由を謳歌してきた上野千鶴子と鈴木涼美の『往復書簡 限界から始まる』などを読むと、そこまで理想的な状態にはなっていないようにも思われる。それは、女性の性的な自由が結局は性風俗や売春など「家父長制」の枠内であることが多いからであろうか。婚活や出会い系アプリなどでも結局メリットとデメリットを考慮し、家父長制的なヒエラルキーの中に欲望があり続けるからだろうか。それとも、「家父長制」「母権制」という区分が間違いなのだろうか。「母権制」や「自然な性欲」事態がありえないユートピアに過ぎないのだろうか(「自然」「健康」を規範的に使うのは批判されそうだが、本論では「ファシズムを促進しない」ことを意味している)

 新石器時代における農耕革命で社会的ヒエラルキーが確固たるものになる以前の社会では、それ以後よりも男性の子孫を残せる確率は高かったことは確かなようである。だから「家父長制」以前の社会になれば、多くの男性たちの「禁欲」はマシになるのかもしれない。そこまで極端な変化を一挙に行うのは無理だとしても、男性も女性も支配されず、「劣等」であることの屈辱や排除される恐怖や不安の少ない、より民主的な社会に私たちの社会も変わっていく必要がおそらくあるのだろう。

 とはいえ、平等で民主的な社会においても、性差やそれ以外の理由によるニーズのすれ違いは存在し続け、それを埋めるために金銭などを介した関係やポルノ、互いに異なる幻想を抱き合うことなどは絶えることはないのではないか。たとえば、デヴィッド・M・バス『有害な男性のふるまい』によると、女性が性欲を忌まわしいものと思ってしまう理由は、ライヒの言うように家父長制のせいだけではない。女性の方が性欲にネガティヴな気持ちを抱きやすいのは、それは進化心理学的な性差により、男性はアプローチする側であり、女性はアプローチされる側であること、そして、セクハラや性暴力などの被害に遭いやすく、そのトラウマやダメージが多くの男性が想像する以上であるという生物学的な根拠を持つ感覚の差なのだとバスは論じる。だから、「メロい」に性欲か否かという議論が出てくる(「性欲」を男性から向けられる嫌なものと認識し、自身の感情や欲望を「性欲」と認識していない齟齬なのではないか、と)。

 そうだとすると、ニーズに生物学的な性差があるわけで、マッチングは困難になり、「自然」に「健康的」に性欲を満足させることの難易度が高くなってしまう。これが完全になくなることはないだろうと思われるし、それを補うための産業の必要性も完全にはなくならないだろう。しかし、完璧や完全ではなくても、社会がそのような「自然」で「健康」な性欲の満足をしやすい方向に進むこと、言い換えれば両者が自由な意志と悦びに基づく性と愛をより実現・実行しやすくする社会規範・倫理・文化・制度・仕組みに変わっていくことで、ファシズムに向かう大衆心理を軽減できるはずである。

 反動に向かうのではなく、リベラリズムやフェミニズムの主張を引き受け、女性もまた自由で解放されながらも、単なるエゴイズムの段階ではなく自己超越的な段階に到達し、家族や共同体の存続にコミットしていけるような新しい思想と社会を積極的に作り上げていく道を模索するべきであろう。そのことで、男性も女性もより満足し解放され幸福になり愛し合える世界がありうるはずである。

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この記事を書いた人

藤田 直哉のアバター 藤田 直哉 リサーチフェロー

1983年、札幌生まれ。批評家。博士(学術)。日本映画大学准教授。著書に『現代ネット政治=文化論』『攻殻機動隊論』『虚構内存在 筒井康隆と〈新しい《生》の次元〉』『シン・ゴジラ論』『新海誠論』(作品社)『新世紀ゾンビ論』(筑摩書房)『娯楽としての炎上』(南雲堂)『シン・エヴァンゲリオン論』(河出書房新社)『ゲームが教える世界の論点』(集英社新書)、編著に『3・11の未来』(作品社)『地域アート』(堀之内出版)『東日本大震災後文学論』(南雲堂)など。1995年からインターネットに触れ、「ネット万華鏡」(共同通信)「ネット方面見聞録」(朝日新聞)などネット時評も担当。https://x.com/naoya_fujita

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