シグナルゲート事件が象徴する問題

トランプ政権幹部たちの杜撰な機密情報漏洩劇
2025年3月、米軍の軍事作戦情報がメッセージアプリ経由でメディアに漏洩するという、前代未聞の事態が発生した。
ドナルド・トランプ(Donald Trump)政権の幹部たちは、国防に関わる軍事作戦の連絡にメッセージアプリ「シグナル(Signal)」を用いていたが、大統領補佐官(国家安全保障担当)のマイケル・ウォルツ(Michael George Glen Waltz)は、イエメンの親イラン武装組織フーシ派への軍事攻撃を相談するシグナルのグループチャットに、迂闊にも米アトランティック誌編集長のジェフリー・ゴールドバーグ(Jeffrey Goldberg)を誤って招待した。そして誰もその状態に気づかないまま、やりとりが筒抜けになってしまったのである。
当初は「偽アカウントでジャーナリストを罠に嵌める工作ではないか」と警戒していたゴールドバーグだが、米東部時間3月15日に米軍がフーシ派に攻撃を始める約2時間前、国防長官ピート・ヘグセス(Peter Brian Hegseth)から攻撃対象その他の正確な情報が届いたことで、本物の可能性が高いと判断。その後にグループチャットを抜け、政府高官たちに事実関係を照会する手順を踏んだうえで、3月24日にアトランティック誌に事の顛末を明かす記事を掲載した。
ゴールドバーグは、国防への配慮から初報の時点では作戦の詳細などは明かさなかったが、トランプ政権が告発内容を矮小化したうえにゴールドバーグへの個人攻撃を始めるにおよび、3月26日にチャット全文の公開に踏み切り対決姿勢を示した。
このスキャンダルは早速、ウォーターゲート事件をもじって「シグナルゲート」と命名された。「機密情報は含まれていなかった」と強弁するホワイトハウスに対し共和党内からも反発の声があがり、米上院軍事委員会委員長の共和党のロジャー・ウィッカー(Roger Frederick Wicker)と、同委員会の民主党のトップであるジャック・リード(Jack Reed)は連名で米国防総省による調査を要請。4月に入って、米国防総省の監察総監室が要請に応じて調査を開始することを表明した。
機密漏洩の舞台となったアプリ「シグナル」とは
シグナルは2013年頃から開発が始まり、2014年に提供が開始されたオープンソースのメッセージアプリである。
「エンドツーエンド暗号化(end-to-end encryption:E2EE)」技術を搭載し、ユーザー同士のメッセージや音声通話を暗号化して、第三者が通信を傍受して解読することを防ぐ点が特徴で、テレグラム(Telegram)と同様に、秘匿性・機密性の高さを誇る(それゆえにテレグラムと同様、強権国家における反政府活動家のツールとして活躍することもあれば、犯罪集団に悪用されるケースもあることが課題となっている)。
安全性は高く評価されている。2017年にはすでにアメリカ上院議員間の連絡ツールとして公式に認可され、上院のスタッフや議員事務所で利用されている。欧米の政府機関でも浸透し始めており、欧州連合(EU)の執行機関である欧州委員会は2020年、職員にシグナルの利用を推奨した。
ただし、それが認可されていない軍事機密に関わる相談に使われていたこと、さらにそこに部外者を招待してしまい、誰もそのことに気づかなかったという政権幹部の杜撰さに、世間は驚愕したのである。
既存プラットフォームへの不信を募らせる連邦政府職員
一方、軍事機密情報の漏洩が明らかになる前から、トランプ政権下において連邦政府職員のシグナル使用が急増しているというレポートは登場していた。
シグナルゲート事件発生前の2025年2月の時点で、サトウ・ミア(Mia Sato)は『The Verge』上で、連邦政府職員が既存プラットフォームへの不信感を高め、シグナルでのコミュニケーションに移行している様子を伝えている。
トランプとイーロン・マスク(Elon Musk)が、政府の組織を恣意的にかき回す様子を目の当たりにして、連邦政府の職員は同僚や友人とのコミュニケーションに従来利用してきたチャンネルを閉鎖し、新しいプラットフォームへの移行を進めている。相手だけでなく、利用しているサービスそのものに対して情報の漏洩を懸念しているのだ。
匿名を条件に『The Verge』の取材に応じた複数の職員は、「機密性の高い会話をする場は、テキストメッセージやFacebook Messengerからシグナルに移った」と明かした。異なるプラットフォームで別々の会話を進めるといった煩雑な事態になることもあるが、職員たちはそれほどに、メッセージのやりとりに神経をとがらせているのである。
今やトランプ政権に恭順の意を示してはばからないMetaのようなテクノロジー企業が、ユーザー情報を政府に引き渡すのではないか。プラットフォーム上の自分のデータがAIで解析され、政府のあぶり出しに引っかかるのではないか。こうした不信感を醸成するのが、GAFAMのような大手テックが一斉に第二次トランプ政権に接近し、巨額の寄付をしたり臆面もなくトランプ礼賛を繰り返したりするなど、媚態を示している現状である。
「テック・オリガルヒ」の背後の見えない権力 https://inods.co.jp/news/5356/
職員の1人は言う。「極端すぎる心配だということは自分でも理解しています。それでも、そんなことは絶対に起きるはずがないと私たちが信じていたことが、すでに幾つも起きているのですから」
政権の監視から身を守るためにシグナル利用に傾倒する連邦政府職員
ワシントンポストも2025年3月25日、ワシントンで連邦政府職員や一部の政府高官が、なだれをうってシグナルに移行している件について報じた。ゴールドバーグがイエメンの軍事攻撃について話し合うグループチャットに誤って招待されたのも、この潮流を背景としている。
匿名を条件にワシントンポストの取材に応じた20人以上の連邦政府職員は、トランプの大統領返り咲き以前は、連邦政府職員の間でシグナルはそれほど使用されていなかったと述べている。こうした「政府系ユーザー」の増加は、シグナルの認知度が高まり普及が進んでいる傾向とも一致する。市場調査会社センサータワー(Sensor Tower)の推計によると、このアプリは2025年に米国で270万回以上ダウンロードされており、2024年の同時期と比べて36%増加している。
政府高官たちは、シグナルの機密性や秘匿性、使い勝手の良さを便利に感じているのかもしれない。その一方で、一般の連邦政府職員の多くは、シグナル使用によって「トランプ政権から身を守る戦術」を実行しているのかもしれない。職員たちは、シグナルを公式業務に使うのではなく、「監視されている」恐怖から解放され、安心して家族や同僚、報道関係者などとコミュニケーションできる貴重な場として利用している。
プライバシーとセキュリティの保護団体「監視技術監督プロジェクト(The Surveillance Technology Oversight Project:S.T.O.P.)」の創設者兼事務局長であるアルバート・フォックス・カーン(Albert Fox Cahn)は、「トランプ政権から監視される可能性を懸念する連邦政府職員から非常に多くの相談や質問を受けたため、デジタル通信のセキュリティ確保に関するヒント集を作成した」と述べた。シグナルの使用も、そのヒントの1つに数えられる。
ワシントンポストの取材に対し、トランプ政権がコミュニケーションのかたちを変えたと話す職員もいた。環境の急激な変化と連邦政府職員の大量削減に見舞われて、職員たちは必死に同僚や他部署の担当者と情報を交換している。イーロン・マスクが政府効率化省(DOGE)の取り組みの一環として、1週間の業務実績を5項目の箇条書きで提出するよう職員たちにメールで通達した際は、「はたして返信すべきか」「返信するならばどのように書くべきか」と相談するシグナルメッセージが飛び交ったと、国務省の職員は証言する。政権に批判的な情報の共有は、とても職場で提供されるプラットフォーム上で行うわけにはいかない。軽率な行動や発言は、自分が標的にされ、解雇されるきっかけになりかねないのだ。
これも匿名で取材に応じたNASA職員は最近、ソーシャルメディアに自分の写真を投稿するのをやめた。地球温暖化対策の規制や政策を目の敵にするトランプ政権に、「気候変動の存在を認めている」と解釈されるのを恐れたのだという。「もう、自分が被害妄想に陥っているのかどうかも分かりません」と、この人物は疲弊した声で語った。
法が軽視され、「政権の記録」が失われることへの懸念
事情はさまざまあるにせよ、政府内部でシグナルが浸透することでなし崩し的に進行しているのは、次のような事態だ。
(1)重要な記録や履歴が保存されず、政権内の情報共有や意思決定のプロセスが不透明になる恐れがある
ゴールドバーグは告発記事の中で、グループチャット内のメッセージが4週間後に自動削除される設定になっていたことを報告しているが、これが事実であれば、情報公開請求や将来の調査に備えて公式の政府業務に関する通信の保存を義務付けている連邦記録法に違反している可能性が高い。
「報道の自由財団(Freedom of the Press Foundation)」で、連邦政府の透明性向上に向けた取り組みを主導するローレン・ハーパー(Lauren Harper)は、政府と労働者の双方が秘密主義に陥って閉鎖されたチャンネルでコミュニケーションを取っている限り、米国民は政府内部で何が起こっているのか理解できず、自分たちのために策定された政策についても完全な説明を受ける機会が得られないままだろうと懸念する。
(2)「国家機密に関する情報は、厳密な法や規則に基づいて、専用の通信システムを用いてやりとりされる」という常識的なレギュレーションが反故にされつつある
国家安全保障に関わる機密情報や資料の管理には高い水準が求められる。漏洩やサイバー攻撃の危険性を最小限にするために、最も安全な政府の専用ネットワークで送信する必要がある。
かつてヒラリー・クリントン(Hillary Clinton)は、国務長官時代に個人のメールサーバーを使用していた問題でFBIの捜査を受け、2016年の大統領選キャンペーンにおいても対応に苦慮した。当時FOXニュースのコメンテーターを務めていたピート・ヘグセスは、機密情報を私用のメールサーバーで扱ったクリントンを厳しく断罪した。皮肉にもそのヘグセスが、今回のシグナルゲート事件においては国防長官として、非公式アプリのグループチャットを用いてフーシ派への攻撃開始を告げる投稿をしていたわけである。
また、ゴールドバーグは、シグナルゲート事件について専門家から疑問が呈されている内容を記事内で紹介している。政府が公認する機密情報の共有プラットフォームではないシグナルに攻撃計画を投稿する行為は、スパイ活動法に抵触している可能性がある。
2025年4月に入って、『Politico』は、マイケル・ウォルツが国家安全保障に関わる業務のために、少なくとも20のシグナルグループチャットを立ち上げて運用していることを報じた。
NSC(国家安全保障会議)報道官のブライアン・ヒューズ(Brian Hughes)は、NSCの業務でシグナルが用いられていることに対し「機密情報には使用されていない」と弁明したが、グループチャットの投稿には国家安全保障上の機密情報が含まれていたことを『Politico』は明らかにしている。シグナルゲート事件が単発の不祥事ではなかったことが判明したことで、問題の深刻さが浮き彫りになった。
シグナルは安全性を高く評価されている暗号アプリであり、問題はその使い方である。歴史や公共性を意識した倫理観を欠くままに杜撰な運用がなされれば、巨大なリスクや取返しのつかない損失につながっていく可能性があるだろう。