ルーマニア大統領選の「やり直し」が開けたパンドラの箱

混迷の中での「やり直し」となったルーマニアの大統領選は、2025年5月18日に決選投票が行われ、首都ブカレスト市長で親EU・中道路線のニクショル・ダン(Nicusor Dan)が、極右政党「ルーマニア人統一同盟(AUR)」の党首であり近年は親ロシアに転じているジョルジェ・シミオン(George Simion)を破るかたちで決着がついた。
→Liberal mayor Dan beats nationalist in tense race for Romanian presidency
https://www.bbc.com/news/articles/crk2xxzxkzxo
日本においては、「秩序と民主主義の手続きが守られた」という論調の報道が中心だった。しかし、東欧の複雑な地政学的事情を背景に持つこの選挙を、素朴なリベラル的価値観の次元から眺めるだけでは、重要な問題を見落としてしまうだろう。
→「公正な選挙守ったルーマニア」(2025年5月23日付 日本経済新聞・社説)
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCD192VL0Z10C25A5000000/
特に今回は、「主権主義のポピュリストを選ぶか、西欧的価値観の知識人を選ぶか」という図式以前のレベルで、「外国による干渉の疑惑を理由に、国民投票の結果をリセットすることができる」という道が示されてしまったため、将来への禍根を残すことになった。
本記事の前半では、一連の出来事を時系列で改めて振り返る。そして後半は、今回の大統領選が「やり直し」という異例の事態を迎えたことをめぐる議論や、今後の国際情勢の中で懸念されるポイントについて見ていこう。
ルーマニア大統領選「やり直し」投票の経緯
(1)大統領選挙:第1回投票
2024年11月24日に大統領選の第1回投票が行われ、泡沫候補と目されていたカリン・ジョルジェスク(Calin Georgescu)が1位となった。ジョルジェスクはNATO(北大西洋条約機構)懐疑派で、親ロシアの立場をとり、ルーマニアと隣国モルドバの統一を支持する「主権主義者(Sovereigntists)」を自称している。
(2)疑惑の浮上と調査
ジョルジェスクが主戦場とした動画共有アプリ「TikTok」が、ジョルジェスクに「優遇措置」を与えていたという疑惑を受け、2024年11月28日、ルーマニア憲法裁判所が大統領選の第1回投票の再集計に乗り出した。一方、TikTok側は疑惑を否定した。
なお、ジョルジェスクの躍進を支えたTikTok戦略については、2024年12月のINODS UNVEILニュースでも紹介している。
→ルーマニア大統領選の予想を覆した極右のTikTok戦略
https://inods.co.jp/topics/4742/
12月4日、当時のルーマニア大統領クラウス・ヨハニス(Klaus Iohannis)は、国家防衛最高評議会の諜報文書の機密指定を解除した。この文書には、2016年に「外国の国家」によって作成された約800件のTikTokアカウントが、突如2024年11月に猛然と稼働しジョルジェスクを支持する発信を行って、投票結果に影響したことをうかがわせるという報告があった。さらに、第1回投票の2週間前には、別の25,000件のTikTokアカウントが活発化していたとされた。数万件のサイバー攻撃やその他の妨害行為を行った「敵対国家」は、ロシアと想像された。
(3)大統領選無効の宣言とやり直しの命令
2024年12月6日、ルーマニアの憲法裁判所が大統領選第1回投票の結果を無効とし、政府に対して選挙プロセス全体と選挙活動をすべてやり直すよう求める決定を下した。ジョルジェスクはこの判決について「制度化されたクーデター」だと抗議し、ルーマニアの民主主義が危機に瀕していると訴えた。
一方、ルーマニア首相のマルチェル・チョラク(Marcel Ciolacu)は、「正しい解決策はこれしかなかった。機密解除された一連の文書は、ルーマニア国民の投票結果がロシアの介入で歪められたことを明白に示している」と、憲法裁判所の判決を支持した。大統領として文書の機密解除を指示したクラウス・ヨハニスも「ルーマニアは安定した国であり、引き続きEUとNATOの加盟国であり続ける」と述べた。
(4)極右の主役が交代する
2025年3月、中央選挙管理局と憲法裁判所はジョルジェスクに対し、不透明な資金源やロシアの支援を受けたオンライン選挙活動の疑いなどを理由に、大統領選のやり直し投票への立候補を禁止した。入れ替わって大統領選の最有力候補に躍り出たのが、「ルーマニア人統一同盟(AUR)」の党首ジョルジェ・シミオンだった。シミオンは選挙期間中、ジョルジェスクとともに行動して、極右の支持の新たな受け皿としてのPRに努めた。
今回のルーマニア大統領選の構図や、ルーマニアと隣国モルドバとの関係、シミオンとロシアネットワークとのつながりについては、偽情報分析団体のデジタルフォレンジックリサーチラボ(Digital Forensic Research Lab:DFRLab)が、やり直し大統領選の決選投票の直前である5月16日に公開した記事で詳しく説明している。
→From Bucharest to Chisinau: How pro-Kremlin networks shaped Romania’s 2025 election
https://dfrlab.org/2025/05/16/pro-kremlin-networks-shaping-romania-2025-election/
DFRLabのレポートによれば、シミオンはこの十年ほどの期間で、熱烈な反ロシア主義者から、クレムリン寄りの言説の推進者へと大きく立ち位置を変えた。モルドバに対しては一貫してルーマニアとの統合を主張し、「モルドバ共和国という人工的な国家を憎む」と宣言した。
モルドバの親ロシア派の政治家たちは、シミオンの統一主義的な活動を利用するかたちで、ガガウズ自治区などで民衆を煽動してきた。今回のルーマニア大統領選のやり直し投票においては、親ロシアの立場をとる元モルドバ大統領イゴル・ドドン(Igor Dodon)が、かつてシミオンのAURとその支持者を「ファシスト」と罵倒したことを忘れたかのように、公然とシミオン支持に回った。
DFRLabは、大統領選のやり直し投票の第1回の直後、親ロシア派であるモルドバ人オリガルヒのイラン・ショア(Ilan Shor)のネットワーク活動が、シミオンの選挙運動を支援していたことを特定した。ショアのネットワークは、偽のソーシャルメディアアカウントを用いて、モルドバ国内で反西側・反EUの言説を拡散する活動で悪名高く、シミオンのAURとの連携は、今回の大統領選が初めてではないと見られている。
(5)大統領選挙やり直し:第1回投票
2025年5月4日に、大統領選やり直しの第1回投票が行われ、シミオンが約41%の票を獲得して1位となった。シミオンはEUを批判し、ウクライナへの支援削減を訴えた。またルーマニアの領土を、かつての範囲(現在のモルドバやウクライナを含む)にまで拡大することを提唱した。次点には、社会民主党の候補を僅差で抜いて、首都ブカレスト市長ニクショル・ダンがすべり込んだ。ダンは中道路線の親EU派で、数学者としての顔も知られていた。
シミオンが首位に立った要因の1つは、ルーマニアの憲法裁判所が大統領選の第1回投票を無効としたことに対する国民の不満だと分析され、BBCのインタビューで、ジョルジェスクの操り人形ではないかと問われたシミオンは、「自分は国民の代表であり、国民はカリン・ジョルジェスクに投票した」と述べた。
第1回投票の結果を受け、ルーマニアの政治的混乱は深まった。5月5日、マルチェル・チョラクは首相辞任を表明し、連立政権が今やその役割を果たせず「正当性を失った」ため、自らが所属する与党・社会民主党が親欧州の連立政権から離脱するとした。
(6)大統領選挙やり直し:決選投票
2025年5月18日、やり直しの大統領選挙の決選投票が行われ、本命視されていたシミオンを下して、汚職との闘いとクライナへの支援継続を掲げて選挙戦を展開していたダンが勝利した。決選投票では1,160万人以上のルーマニア国民が投票し、そのうち600万人以上がダンを支持した。隣国モルドバでは、87%のルーマニア人有権者がダンを支持した。
ただし、イギリスを含む西ヨーロッパに暮らす在外有権者の間では、シミオンが圧倒的に支持されていただけに、欧州各国やウクライナ政府は、選挙の行方に神経をとがらせていた。ルーマニアはNATOの東側の最前線に位置する重要な加盟国であり、ウクライナと長い国境を共有している。シミオンはかねてから、強固な主権国家からなる欧州連合(EU)を望んでいると主張し、AURはウクライナへの武器供与に反対していた。
親EUでリベラル派のモルドバ大統領マイア・サンドゥ(Maia Sandu)と、ウクライナ大統領のウォロディミル・ゼレンスキー(Volodymyr Zelensky)は、ダン大統領の選出に相次いで祝意を示し、欧州委員会委員長のウルズラ・フォン・デア・ライエン(Ursula von der Leyen)もSNSで、「投票に参加した多くのルーマニア国民が、強固なヨーロッパの中で、ルーマニアが開かれ、繁栄するという約束を選んだ」と述べた。
憲法裁判所による「大統領選のやり直し」への批判
今回のルーマニア大統領選で、危うい前例が作られることになった。ルーマニア憲法裁判所が、ロシアのSNSによる工作疑惑を理由に大統領選の第1回の投票結果を無効とし、やり直し選挙を強行したことで、ルーマニア国民が政治制度全般に抱く不信感は高まった。
現行のEU・NATO体制に批判的なジャーナリスト、トーマス・ファジ(Thomas Fazi)は、今回の件を「ルーマニアの司法クーデター」だと難じ、特に「〈外国による介入〉という漠然とした理由で選挙結果を無効化できるのであれば、今後も既得権益層を脅かすような選挙結果が出た場合、同様に覆される可能性があるだろう。これはルーマニアだけで起きることではない」と警告した。
→A Judicial Coup in Romania
https://www.compactmag.com/article/a-judicial-coup-in-romania/
一方、リベラル基調のBloombergの記事でも「ソーシャルメディア操作と投票結果との因果関係を証明することの困難」が指摘されている。以下、詳しく見ていこう。
→No One Is Certain Social Media Can Swing Voting Results
https://www.bloomberg.com/news/articles/2025-05-16/romania-election-can-social-media-really-swing-voting-results
Bloombergの記事によれば、ネット上でなされる妨害工作と、選挙を中止せざるをえないような影響との因果関係を、現時点では研究者たちは証明できないという。ルーマニアの憲法裁判所による決定に対し、米国副大統領のJ・D・ヴァンス(James David Vance)は、「諜報機関による薄っぺらな疑惑に基づいたもの」と批判したが、それを甘受するしかない状況なのだ。
機密解除された諜報文書の中で、25,000のTikTokアカウントからなるネットワークが、ハッシュタグ・絵文字・コメントなどを用いてジョルジェスクの人気を高めるようとしていたと記されている。また、マーケティング会社がルーマニア人のインフルエンサー100人以上に報酬を支払い、ジョルジェスクを利するTikTok動画を投稿させていたことも報告されている。ルーマニア情報局は、この活動は「国家主体」によって組織化された可能性があると述べている。
ただし、ソーシャルメディアの組織的な操作が、有権者にどれほど直接的な影響を与えるものかは不明瞭なままだ。ブカレストを拠点とする欧州デジタルメディア観測所の研究員、マダリナ・ボタン(Mădălina Botan)は、これらの文書は「浅い」洞察しか提供しておらず、偽情報と有権者への影響とを直接結び付けることはできなかったと述べている。
「ある程度の相関関係を見出すことはできます。それでも、25,000の偽アカウントによって、ジョルジェスクが25%の票を獲得できたと断言できるわけではありません」
ソーシャルメディアを利用した偽情報による外国の干渉が注目されるようになった分水嶺は、ロシアのトロールファームがFacebookに約61,500件、Instagramに約116,000件、当時のTwitterに約10,400,000件もの投稿を行った、2016年の米国大統領選である。これはオンライン選挙介入のケーススタディとして最も綿密に調査された事例の1つとなったが、クレムリンのオンライン妨害によって選挙結果が左右されたと明確に証明した者はいない。
ペンシルベニア大学のコミュニケーション学教授で、このテーマに関する研究書も上梓したキャスリーン・ホール・ジェイミソン(Kathleen Hall Jamieson)は、2016年の大統領選でロシアがドナルド・トランプ(Donald John Trump)の勝利を支援したと考えていると述べつつ、ただしソーシャルメディアの影響を特定するのは非常に難しいとも認めている。トロールファームのコンテンツはしばしば、エコーチェンバー的に有権者の既存の見解を強化する役割に偏るからだ。2016年の米国大統領選に関連する13,000,000件のTwitter投稿を分析した2019年の研究では、ロシアのボットによる投稿は、そもそもトランプに投票する可能性が高い保守派によって共有される可能性が高いことがわかった。
もちろん、オンラインキャンペーンが投票を左右するという因果関係の確証がないからといって、それが起こっていないということにはならないと、ケンブリッジ大学の社会心理学教授のサンダー・ファン・デル・リンデン(Sander van der Linden)は述べる。
「何かが起こっていることは分かっています。ただ、それを明文化し、因果関係を解明する完璧な手段がないだけなのです」
今回のルーマニア大統領選において最も重要な問題は、クレムリンが投票に干渉しようとしたか否かではなく(そこに疑問を呈する識者は少数派である)、検証を欠いたままの説得力に乏しい決定に基づき、第1回の投票結果が否定されたことだ。それがルーマニア国民の政治体制への根深い不信感をさらに悪化させた。
ロシアの介入が投票結果にもたらした影響についてルーマニア憲法裁判所が説明できなかったため、「当局は何かを隠している、あるいは投票結果に不満を抱いているのではないか」という憶測が飛び交うことになったと、ルーマニアのシンクタンク、メディアン・リサーチ・センター(MRC)所長のマリーナ・ポペスク(Marina Popescu)は考えている。
また、ルーマニアのシンクタンク、エキスパート・フォーラムで選挙の分析を専門とするセプティミウス・パルヴ(Septimius Pârvu)は次のように述べている。
「おそらく近年の候補者は国民が真に望んでいた最良の候補者ではなかったでしょうが、少なくとも選挙プロセス自体には信頼がありました。しかし、第1回の大統領選の投票の無効化は、システムへの信頼を打ち砕きました」
分断が進む中で選択された「民主主義を守るための非民主的な手続き」の意味
そして、これほどに高い代償を支払ってやり直しを行ったルーマニア大統領選の結果も、国内外の政治的な不安定さを解消するわけではなく、束の間の平穏さをもたらすものに過ぎないのかもしれない。
かつてルーマニア大統領府およびルーマニア上院の外交顧問を務め、現在は欧州大学院(European University Institute:EUI)のロベール・シューマン高等研究センター(Robert Schuman Centre for Advanced Studies)助教授である政治学者ヴェロニカ・アンゲル(Veronica Anghel)は、今回の大統領選を「西側の民主主義国では極めて稀な、司法の勇み足の典型例」としつつ、「しかし逆説的だが、ルーマニアの民主主義は、多くのルーマニア人がきわめて非民主的だと考えるこの憲法裁判所の特例措置によって延命した」と、アイロニーを込めて述べている。以下、彼女の分析を見ていこう。
→Romania’s Postponed Reckoning
https://www.foreignaffairs.com/romania/romanias-postponed-reckoning
今日のルーマニアは、権威主義国家とまではいかないものの、自信に満ちた民主主義国家というわけでもない。現在、議会の30%を占める極右勢力は、過激な反民主主義的言説を常態化させ、現状に失望した国民を惹きつけている。ルーマニアの自由主義秩序は今のところは生き残っているものの、その基盤は驚くほど脆弱である。
ルーマニアで極右への支持が拡大している大きな要因の1つは、政治が国の疲弊した経済モデルの改革に失敗していることだ。長年にわたるGDPの成長と欧州市場への合流にもかかわらず、国民の大部分の生活水準はほとんど向上していない。公共サービスは空洞化し、地方の若者の失業率は30%を超え、人口の約3分の1が貧困の危機に瀕している。主要都市と地方の分断は、何十年にもわたる地域インフラへの投資の欠如や偏りがもたらしたものである。多くのルーマニア国民はEU内で最も深刻な不平等に苦しみ、現行の政治体制を腐敗したものと見なしている。
そうした国民の疎外感と幻滅が底流にあるからこそ、極右勢力のこれ以上の台頭を封じるため、ルーマニア憲法裁判所は2024年12月の大統領選をやり直すという異例の措置を取らざるをえなかった(その結果、今度はシミオンが大統領就任直前まで行ったわけだが)。
ルーマニア国内における分裂は、重大な対外的影響を及ぼす。NATOの脆弱な東側の最前線に位置するルーマニアは、黒海地域におけるロシアの影響力封じ込めを目指す西側諸国の戦略上、極めて重要な役割を果たしている。ルーマニアの大統領選が、EUとNATO加盟国間の分裂を煽ろうとするロシアの格好の標的となるのも、それゆえである。憲法裁判所が大統領選のやり直しを命じたことに対し、ロシアの大統領報道官ドミトリー・ペスコフ(Dmitry Peskov)はすぐに「ルーマニア政府は、有権者から支持する候補者を選ぶ権利を奪った」と非難し、それ以降もロシアはソーシャルメディアやテレグラムなどのアプリを利用して、ルーマニアの政治への干渉を続けている。
ヴェロニカ・アンゲルは「ルーマニアは、冷戦終結後に経験した中で、民主主義の基盤に対する最大の挑戦を乗り越えた。しかしそこで頼った緊急の司法介入によって、体制の正統性をさらに損なうことになった可能性がある」とし、「ルーマニアの未来は、今回の時間稼ぎを活かして、指導者たちが国家の体制を再生させられるかにかかっている」とレポートを結ぶ。
大統領選で露呈した、西側寄りの体制と、拡大を続ける極右勢力との間の大きな溝は、ダンの大統領就任によって解消されるわけではない。EUとNATOが危惧するのは、ルーマニアの政治的分裂が国内の不安定化を加速させるだけでなく、すでに揺らいでいるルーマニア人の民主主義モデルへの信頼を損なう隙を、国内外の敵対勢力に与えてしまうことだ。
ロシアのデジタル工作を口実に、砂時計をひっくり返すように大統領選の投票結果を反故にしたことの意味は、ルーマニアだけでなく各国の歴史の中で、今後も検証が続けられていくことになるだろう。