なぜ毎日SNSでは喧嘩が続くのか——アクセル・ホネット「承認をめぐる闘争」で読み解くネット政治

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愛→法→連帯、自己は三段階で形成される

 今回は、現在の陰謀論などが蔓延している状況について、フランフルト学派第三世代でアクセル・ホネットの「承認をめぐる闘争」の理論の観点から考えてみることにしたい。アクセル・ホネットの主著『承認をめぐる闘争』は、ハーバーマスに提出された教授資格申請論文である。本稿は、本書の邦訳(増補版)を参照しながら、現在における様々な闘争や陰謀論、そしてSNSで毎日続いている喧嘩について考えてみる。

 アクセル・ホネットの理論の基本は、社会的な様々なコンフリクトを、「承認」をめぐる闘争だと見ることである。これは、マルクスが社会的闘争の原因を経済的利害により多く還元しがちであったこと、マキャベリなどが功利主義的に考えすぎていたことに対し、道徳的な問題や感情的な要素の重要性を指摘する理論であると位置づけられる。様々な文化や価値を持つ諸集団が、尊厳や承認をめぐりコンフリクトを繰り返し続ける、それが社会であり、歴史である、とホネットは考えていた。

 その闘争を、ホネットは、ヘーゲルの理論を参照し、三つの発展段階で説明する。それは、愛、法、連帯、という段階である。愛は、親子や恋愛や親密関係などにおける愛着と深く関係している。法は、自身や自身の属する集団への尊重や承認を法的に求めることである。連帯とは、個人の個的なものの承認を社会的に認めてもらうことでのびのびと自由に自己実現できる、というような段階である。

尊重の欠如がコンフリクト(闘争)を生む

 これらに対する「尊重欠如(軽蔑、承認拒否)」が、社会的な抗議や、反社会的な行動、犯罪などの動機になっているとホネットは言う。ヘーゲルを参照しているホネットにとっては、それらのコンフリクトによって社会はよりよく進歩していく、承認や包摂をより拡大していく方向にいくことを規範的に肯定している。

 現在のネットにおける、フェミニズム、弱者男性論、セックスワーカーの権利運動、LGBTQなどの論争を、このような図式で理解することが出来るのは、容易に理解できるだろう。同時に、「白人差別」や「男性差別」などに怒る者、ナショナリスト、尊厳を奪われた「チャド」「ゴミ白人」、ラストベルトの者たちの叛乱としてのトランプ現象なども、このような承認や尊厳を巡る道徳的な怒りを駆動力にしている。

 これらは「アイデンティティ政治」と呼ばれるが、その心理的背景にあるのは、「アイデンティティ(同一性)」は、他者による承認によって確立するというメカニズムである。「承認をめぐる闘争」という理論は、現在を理解するために記述的に有用であろう。問題はアイデンティティや尊厳の問題になるので、アイデンティティを揺るがすものは不安や危機の感覚を齎すので、現実や事実であっても否認され、受け止められなくなってしまう(それを受け止めることが、存在の危機をもたらしてしまうので)。だから、都合の良い情報ばかりを摂取するようになりやすい。そのような心理的なメカニズムが、ポストトゥルースの背景にあるのかもしれない。

「愛」がもたらす承認は、「法」からは得られない

 本稿が注目したいのは、愛と法の段階についてである。愛は、親密で排他的で個別的な段階である。「『両親と子ども』の関係においては、主体どうしが互いに愛しあい、感情の面でも必要としあう存在であることを承認している。個体としての人格性は、相手をとおして自分が承認されていることをみいだす」(p24)と言っている。

 これをベースにして、抽象的な人格に対する、無機的・システム的な形式である法の段階へと自己形成していく、とホネットは考えている。「法とは、愛とは異なって、社会的に親密な関係という特殊な領域に限定することが構造的に許されない相互承認の形式を表している」(p68)。コンフリクトは、そのように自己形成を発展していくために有用で必要でもあると彼は考えている。

 さて、現在、セクシャリティやジェンダー、そして愛着が絡む社会的コンフリクトがネットで多いように見える。インセル、弱者男性、オタクたちの論争もそうであろうし、フェミニズムやセックスワーカーを巡る論争もそうであろう。性暴力を受けたり虐待などのトラウマを受けた者たちの声も、SNSなどで可視化され、ひとつの運動のようになっている。

 それらを見ていて思うのは、愛の段階の自己形成の問題が、法の段階の自己形成の困難になっていたり、愛の段階における飢えを集団的承認やアイデンティティの要求(公的な保護や支援という形での表現を求める)、母や父の代理としての国家や民族への同一化要求と錯誤しており、キッパリと三段階が切れるようになっておらず、連帯(自己実現)の段階にまで至りにくくなっているのではないか、ということである。

 親子を基礎とする愛の関係において、他者が存在し応答してくれるという信頼が育まれ、「はじめて主体の自然的な個体性が確認される相互承認の関係」(p50)を学ぶ。「愛されるという経験が主体それぞれにとって共同体の公共生活に参加するための必然的な前提をなす」(p52)「特殊な衝動的性格について根本的に承認され、肯定されるという感情だけが、政治的な意思形成に同等な権利をもって参加することを可能にする自己への信頼の基準を主体のなかで成立させるのである」(p52)「エロス的な関係が愛に高まるとき、互いにみずからを他者において知ること(略)が、両方のパートナーの共同認識へと発展していった」(p53)

承認への飢餓は、犯罪や逸脱行為として現れる

 SNSでのコンフリクトを見ていると、愛の要求を、法の要求として求めていることが多く見られる。愛は、個別具体的であり、一人一人の無限の多様性と複雑性を受容するものである。しかし、法や社会・政治は、その本性として、それを受容できるように出来ていない。愛の次元の飢餓を満たすことを、法に求めてしまっているのである。「自分の生活が個体的な特殊性におかれたままで尊重されたいという主体の要求」は「法は、すべての人格が同じ要求の担い手として平等に尊重される相互承認関係を表現するものなのだから、まさに個々の個体すべての特殊な生活史を尊重する媒体として役立つことはありえない」(p78)。そのような、個別の複雑な多様性に対する承認の飢餓は、社会に対する犯罪や逸脱行為として現れるとホネットは考えている。「犯罪」は「道徳的挑発」である、と。個別性と特殊性を公的に承認される要求が満たされるのは、第三段階、連帯の段階であり、個別の能力や達成を社会が承認する「自己実現」の段階である。

 SNSにおける現在のコンフリクトの中で、これまでの社会運動・政治闘争と大きく異なるのではないかと思われるのは、このような愛・愛着・親密性の次元の問題が大きく前景化していることである。家庭や親族や共同体が希薄化している結果なのか、対人関係の難易度が上がっているからなのか分からないが、それをこそ考えなければいけないのだと、長年、ネットにおける「革命」運動に参加・随伴・観察・批判してきた者として、思う。一部の「表現の自由戦士」と呼ばれる者たちが、公共の場所に性的なモチーフを展示することにこだわるのも、自分たちの文化的アイデンティティに対する尊重を求めているからであり、そこに対する傷つきが多いので過敏に拒絶を感じやすいからなのではないかと思われる。弱者男性やインセルたちの要求もそうであろうし、一部のネットのフェミニズムやPTSDの界隈を見ていると、存在の受容を求め続け、闘争を続けている者がいるように思う。それは、抽象的な人格としての平等という、近代的・法的な扱いではなく、むしろ個別の人格としての尊重と受容という、文学やカウンセリングの領域における解像度での受容を求めているように見える。現代において、近代法や、近代的な考え方が後退し、中世化していると言われるが、その背景にある心理的メカニズムは、愛着に拠るものなのかもしれない。

「個人的なことは政治的なことである」というフェミニズムの標語に倣って言えば、「愛や親密性の問題を、政治的なものとして要求している」のが現在であり、それこそが今日的な「政治と文学」の状況であると言えるのかもしれない。かつて、福田恒存は、「一匹と九十九匹と」で、政治は九十九匹を救えるが、救えない一匹を救うのが文学だと言った。この言葉は、『新約聖書』の「ルカによる福音書」と「マタイによる福音書」から来ており、その一匹を救うのこそが政治ではない宗教の領域である、という宣言であった。だが、今は、むしろ文学的な要求を政治的に行うようになっている。親密性の段階を、政治的に満たすように望んでいる、と言うべきか(「国民は天皇の赤子である」という概念や、「母国」などの用語法において、それらの要求はこれまでもあったことが窺い知れるが)。

 何故そうなるのか。その背景に、アイデンティティ(同一性)の脆弱性がある場合がある。その場合、集団的アイデンティティに過剰に同一化し、それへの批判に過敏にもなることもある。

虐待や排除などの「尊重欠如」が自己形成を阻む

 コンフリクトの元となる「尊重欠如」についても、ホネットは三段階で考えている。暴力的抑圧、権利の剥奪、尊厳の剥奪である。人間の「統合性」が傷つけられたと感じたときに、同一性が崩れる危機を感じ、「承認をめぐる闘争」の契機となる。

 その「尊重欠如」の「愛」の段階に相当する行為は「虐待」(p178)と呼ばれる。それは主体の現実感覚を剥奪し、境界線を失い自他の区別が曖昧になり他者の意志と同一化させられることになる。虐待は「愛によって習得した自分の身体を自律性を保ちながら調整する能力への信頼をあとあとまで損なうような尊重欠如」(p179)であり、自分自身への信頼が破壊される、とホネットは言う。

 「法」の段階に相当する尊重欠如は、社会における「権利をもつことから構造的に排除され続けること」(p180)にあるという。そして、身体的な虐待の後遺症が、社会的な恥辱を受けたという感覚とも連続性を持つこともホネットは記述している。両者の「承認をめぐる闘争」には、同じような情動の基礎があると考えているのである。つまり、親子や性愛などにおける欠如と、政治的な運動や要求とに、心理的な連続性があると考えているのだろうと思われる。

「相互承認」のためには、他者との対等性の理解が必要

 現実は、ホネットの言うように、愛、法、連帯という自己形成・発展の段階を辿り、コンフリクトを通じて社会がより包摂的で自由になっていく、という理想通りの発展段階を辿っているようには見えない。ある部分においてはそのような進歩が起きているように見えるが、全体としては逆の方向に進んでいるセクターも多く、引き裂かれ分裂しているのが現状である。ホネットが規範的に肯定した包摂と承認が拡大していく方向と、排除と差別が拡大していく方向の両方のベクトルに分裂しているのだ。

 この状況をもう少し深く考えるために、本稿で注目したいのは、ホネットがジョージ・ハーバート・ミードの理論の影響を受け、ボウルビィの愛着理論や、ウィニコットの発達理論などを参照しながら「承認をめぐる闘争」を考えている箇所である。ここに注目する理由は、SNSでのコンフリクトを観察していると、虐待や性被害、家族における様々なトラブルなどを抱えており、精神疾患や障害などを持っている者も多く見えるからである。

 愛着理論のボウルビィを参照し、「母親と子どもの相互行為は、二人の当事者が感情や感覚を共通に体験する能力を相互に身につけあうきわめて複雑な過程」(p130)にホネットは議論を進める。ホネットが重視しているのは、自己中心的で独我論的な段階から抜け出し、相互尊重できるようになることである。赤ん坊は独我論的であり、幼児は万能感を持っているが、大人になるに連れて、その要素は減っていく。この「親離れ」の過程でトラブルが起こると「境界症候やナルシシズム症候」(p131)が起こり、様々な問題が起こるとホネットは書く。

 さらに、ウィニコットを引いて、共依存的な問題についても言及する。母子などの共生は、「二人の相互行為のパートナーが、そもそもそのつどの他者にたいして個体としての境界線を引くことができず、欲求の充足という点で相互にまったく依存しあっている」(p133)。これらにおいて「成熟した愛の形態の原初的なモデル」である「他者において自己であること」(p135)が学習される。それが、自己の固有性や特殊性と、集団における承認を両立する「連帯」の基礎とホネットが考えていることは明らかであろう。

「子どもによる攻撃の出現は、たいていは全能による支配を失う経験に向かわざるをえない欲求不満と因果関係があるとされている」(p136)、この攻撃と境界線の引き直しによる「闘争」を経て、母と子は自己形成を発展させていく。成功した場合「相互に共生しながら融合しあう必要はなく、そのつど他者の愛に依存しあっていることを知ることができるのである」(p137)。この愛の理想は、社会のコンフリクトによる発展による相互承認と自己実現という理想とも重なっている、人間学的な理想である。

 共同体が解体し、家族形成や、恋愛や結婚や友情が困難になってくると、ホネットの言うような自己形成の段階を理想的に踏める者が減ってくると考えられる。そうすると、相互承認に必要な、他者と自分の対等性を理解する段階にまで自己形成できるものが減ってくるという問題が生じる。ナチスドイツやファシズムなどもある種の「承認をめぐる闘争」であるが、そこに欠如していたのは相互承認であった。対等な存在として互いを承認しあうことの欠如は、現在の排外主義や弱者男性論にもあり、一部のフェミニズムなどにも存在している(ナンシー・フレイザーとホネットの共著『再配分か承認か?』の中でその議論が展開している)。かくして民主主義や市民社会は危機に陥っていくのだが、その根源にある愛や愛着、家族、性愛などの問題をしっかりと考えるべきだと考えられる理論的な根拠が、ここにある。「法」の段階にまで自己形成していない主体には、対等な存在として尊重しあう民主主義や、個人の主観や感情の個別性や親密性の段階を捨象する抽象性の段階である科学や論理などの理解も困難になってくるのだと推測されるからだ。ポストトゥルースや陰謀論の蔓延は、そのことの結果のひとつなのかもしれない。

「承認をめぐる闘争」の規範から零れてしまった者の闘争?

 しかし、こう考えることもできる。「市民社会」が求める「自己形成」から逸脱してしまう個体たちが、いる。家庭や愛着や先天的な問題を抱え、このような「自己形成」が困難であり、そうであるがゆえに公的な声を持ちにくく、承認されにくかった者たちが承認を求めることによるコンフリクトが、現在のSNSで起こっているのであり、それは包摂をより拡張させる進歩である、のだと(たとえば山本圭は『不審者のデモクラシー』で、そのような「不審者」たちの政治の可能性を検討した。「アウトサイダー・ポリティクス」という表現があるが、そのアウトサイダーもこのような者たちと重なるだろう)。

 確かに、そうであろう。であるから、そこに、可能性と問題が、同時に孕まれているのだ、と解釈するべきなのだろう。ある意味で、それは解放であり、拡張である。しかし、危険な道でもある。相互承認や相互尊重を持たず、肥大化した自我の満足を赤ん坊が要求を満たすように求めたり、自己愛性の強い者のように些細なことで傷つき道徳的な抗争を引き起こす者も当然含まれるからであり、そのようである「個」の多様性とあり方を社会や政治が全的に満たせ、という要求に傾斜する方向に行くならば、ファシズムの方向に傾斜していくと考えられるからである。ホネットの理論の規範的な側面である「相互承認」を目指すという理念がなくなったならば、ファシズムに近い状態、幼児的な全能感と妄想的な現実否認に陥る可能性が、どのようなアイデンティティ集団にもある。そして、そのような要求を抱く自分たちすらありのままに承認し包摂せよ、という要求には、応えられる現実的な限界が存在していることも確かである。リソースの有限性という限界が不可避的に存在しているからである。

 ホネットが、理想的な発展段階として掲げる「連帯」のあり方は、自身の個性や特性や特殊性を認められ、同時に自由である状態である。そうなるためには、能力による達成を社会に承認される必要があるとされる(その社会の価値観自体を変化させる闘争自体をホネットは肯定しているが、「自己中心性」は否定されている)。そのために、努力も自己形成(ビルデゥングス)のつらい遍歴も必要なのである。しかし、それを達成できない者にとって、それは「能力主義」であると見えるかもしれない。それを批判することは、妥当である部分もあるが、もう一方では努力と達成抜きに、自身をありのままに全的に承認せよ、という幼児的な要求に崩れていくこともありうる。まったく努力も社会的達成もしていないのに、自身を全的に受容する異性を求める非モテの人々を見ることは、稀ではない(様々な達成や成功の難易度が上がっている社会そのものの問題も確かにあることも間違いないのだが)。しかし、そのような受容を、個人、あるいは、他者や社会、法や国家に求めても、物理的に、不可能である。それは、有限の資源だからである。相互承認をするならば、相互に増やしあうこともできるのだが、一方的にもらおうとし続ける者が増えるならば、それは供給できなくなり、奪い合いになる。WinWinではなく、ゼロサム的な世界観は、どの集団がそれに値するのかについての序列を生みだし、差別と排除の基盤となる。だから、健全な相互承認の段階にまで高まることが望ましいのだが、既に述べたように、成育歴、虐待、脳神経の特性、精神疾患やパーソナリティ障害などにより、それが困難な者たちによる包摂の要求が今なされているのである。「アウトサイダー・ポリティクス」のある側面は、ホネット的あるいは人間学的な理想が排除してきた者たちの意義申し立てということであろう。現代の問題は、それに恵まれない者たち、自己形成が困難な者たちの相互承認の要求にどう応えるか、ということにあるのだろう。これは極めて難しい問いである。

 赤ん坊のように自己が全的に受容されることの断念という意味での自己形成を志向すること、そして、その基盤となる愛着関係の健全化などは、規範として必要であり続けるように思う(とはいえ、多様な愛や性を持つ部分集団=サブカルチャーの持ち主が、それこそ承認をめぐる闘争をしたり、生き方の実験をすることをホネットが否定しているのではなく、そのような抗争をむしろ肯定する理論である)。だが、それから零れ落ちてしまう者たちの承認欲求にどう対処するべきかは、大きな社会的課題であろうと思われる。

コミュニケーションと相互承認の再設計を

 アクセル・ホネットの理論を参照することで、ポストトゥルースの問題に対する処方箋が得られるとしたら、以下である。相互性や相互尊重、抽象的で対等な他者や市民という価値観は、コミュニケーションの結果として生まれてくるのであり、それは家庭、共同体、教育、恋愛や友情、インターネットやSNSなど、総合的に考えられるべきことだということだ。たとえば、SNSなどが独我論的で他者と出会いにくいフィルターバブルの設計になっていることや、仲間外れの不安から準拠集団(アイデンティティ集団)への帰属や同調圧力が高まっていることなどが、相互性を実感しにくい原因なのかもしれない。あるいは、家庭の愛着形成の問題が生じているのかもしれず、友達と遊んだり恋愛したりする機会が減ってるせいかもしれず、傷つくことやコンフリクトを忌避しすぎるあまり、自己形成のために必要なプロセスを損ねてしまっているのかもしれない。

 その結果として生じるのは、デマと陰謀論と分断が蔓延する、妄想的なファシズムの社会になるのかもしれないという危機感を抱きながら、私たちはそのような総合的な視野で、社会や生き方やコミュニケーションそのもの全体を再設計する方向で考えないと、この危機は克服できないのではないか。

 そして、私たちに出来ることも、ある。承認は、私たちが生産することのできる資源である。もらうこと、満たされること、受容されることばかりを求めて奪うのではなく、誰かを認めて与えることを個々人が自分から始めて贈与することで、承認の社会的な総量を増大させることは可能なのである。幼児的な万能感の方向ではなく、自己形成に向かうような承認とコンフリクトのバランスを、家庭や遊びや教育やSNSやケアの場などにおいても、調整していくことは可能なはずであろう。無論、コンフリクトが完全に消滅し、調和した世界になることは、私たちが生きている間には起こらないだろうという断念をも受け入れる必要はあるだろうが。

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この記事を書いた人

藤田 直哉のアバター 藤田 直哉 リサーチフェロー

1983年、札幌生まれ。批評家。博士(学術)。日本映画大学准教授。著書に『現代ネット政治=文化論』『攻殻機動隊論』『虚構内存在 筒井康隆と〈新しい《生》の次元〉』『シン・ゴジラ論』『新海誠論』(作品社)『新世紀ゾンビ論』(筑摩書房)『娯楽としての炎上』(南雲堂)『シン・エヴァンゲリオン論』(河出書房新社)『ゲームが教える世界の論点』(集英社新書)、編著に『3・11の未来』(作品社)『地域アート』(堀之内出版)『東日本大震災後文学論』(南雲堂)など。1995年からインターネットに触れ、「ネット万華鏡」(共同通信)「ネット方面見聞録」(朝日新聞)などネット時評も担当。https://x.com/naoya_fujita

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