米価高騰で再考、新たな食糧戦への備え

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 「米価」の急騰が世間を騒がせた。原因については識者が諸説を唱えているものの、なお判然としない。こうした状況下で再び脚光を浴びるのが、わが国の「食糧安全保障」の実態である。お隣の中国では、2023年に「食糧を巡る主導権」を国家戦略の優先事項に掲げ、国内増産と輸入多角化の強化に踏み切った1

 一方、日本は2024年6月、「食料・農業・農村基本法」を25年ぶりに改正し、新たな「食料・農業・農村基本計画」を策定した2。この背景には、日本の食料自給率はカロリーベースで38%、生産額ベースで61%3という低水準が長期的に続き、さらに高齢化・担い手不足・気候変動など構造的リスクが複合化している現実がある。事態は危険水域に差し掛かりつつあり、政府・産業界・消費者が一体となった取り組みと、国民的リテラシー向上が急務だ。

目次

 「食糧安全保障」概念の形成と中・日のタイムライン

 国際的な場で公式に「食料安全保障」という言葉が定義とともに登場したのは、1970年代半ば、世界的な食料危機を背景とした議論の中で初めて登場したとされる4。日本では1973年の「米国大豆禁輸」を契機に輸入依存のリスクが改めて認識され、同語が定着したと言われる。なお、中国で「食料安全保障」が本格的に注目され始めたのは1990年代半ばとされる5

 また、食糧を武器化する発想は、古くはナポレオンの大陸封鎖令や、第二次世界大戦時の米国による日本への飢餓作戦などその歴史は長い6。その手法は情報の伝達手法の進歩に伴い、新たなものへと変化している。現在では、ソーシャルメディアの普及や生成AIの爆発的な進化によりその手口は変わりつつある。本稿では、食糧安全保障における対日リスクを中心に、今後検討すべきリスクシナリオについて考察したいと思う。

中国による対日「食糧戦」シナリオ

 穀物を輸入に大きく依存する日本にとって、最も懸念されるのは中国の動向だ。中国指導部は食料安全保障を国家戦略の最優先事項と位置付ける。中国農業大学の張正河氏は2020年の記事で「食料は単なる商品ではなく、戦略的武器である(粮食不仅是商品,更是一种战略武器)」と述べ、食料を地政学的交渉力・金融手段に転化しうるとの認識を示した7。一方、中国政府は表向き「食料問題の政治化・武器化」に反対する姿勢も示し、習近平主席は2022年G20で「食料やエネルギーを政治的手段・武器にしてはならない」と各国に呼びかけている8

 さらに、中国は食糧安全保障に関連し、2024年以降、次の3つの方針を発表している。

・穀物・食用油などの備蓄予算を前年より6.1%増の1,316億6,000万元に増額し、年間7億トン超の穀物生産目標を設定9
・2024年末時点で穀物備蓄企業の買付は約4億2,000万トンを予定。
・動物飼料用大豆ミールの輸入依存を、2030年までに比率10%へ削減する計画
10

 これらは「輸出規制」「輸入削減」「備蓄操作」を組み合わせる“食糧戦”の布石とみなせることは言うまでも無いだろう。

日本がハイブリッド戦争の標的となる可能性

 2022年、資源・食糧問題研究所の柴田氏は中国の食料戦略リスクと日本政府の危機意識の低さを指摘した11。ロシアがウクライナ侵攻に際して世界の小麦供給網を揺さぶり、欧州や米国への圧力カードとしたように、中国もまた食糧を利用した影響力行使を行う可能性は十分に考えられる。

 また、台湾の聯合新聞網は、低い食料自給率ゆえに日本がハイブリッド戦争の標的になりやすいと報じ、東北大学の研究者は「食料が武器化される世界で、日本は極めて脆弱」と警鐘を鳴らしている12

 このような専門家の指摘は、現在の米価高騰を予見していたかのようにも映る。偶発要素はあるにせよ、日本は今まさに「食糧戦」への備えを急ぐべき段階にある。

「超限戦」における食糧戦の位置付けの考察

 中国の軍事戦略書「超限戦」に照らせば、食糧戦は「貿易戦」「制裁戦」「外交戦」「情報戦」の4戦術に落とし込めるのではないだろうか。特に、「情報戦」は単独戦術ではなく、他の戦術と組み合わせて実施される可能性があるため、比較的、発生確率は高いのではないかと考えている。

戦術想定される手口日本への影響
貿易戦供給ショックで交渉カード化食料価格急騰・需給不安
制裁戦対中政策への報復措置特定品目の輸入停止・禁輸
外交戦食料協定による包囲網形成調達先多角化の制約
情報戦世論操作・認知領域攻撃政策判断を対中譲歩へ誘導

情報戦を中心としたリスクシナリオ例

 「情報戦」の目的は、日本国内の消費者や農業団体に対して不安を拡散し、政治判断を対中譲歩へ誘導することなどが考えられる。実際に、「情報戦」を起点とし貿易・外交カードが後に実効性を担保する手口は福島水産物の禁輸で実証済みであることを鑑みると、その効果は絶大だ。

 手口は、影響工作そのものだろう。想定される手口や偽情報は、

1. 情報戦:SNSでのデマ拡散
 すぐに想起されるのは、SNSボットや親中メディア、キーオピニオンリーダー(KOL)を利用した偽情報、プロパガンダの拡散だ。良く知られた手法であるが、X(旧Twitter)やTikTokといったSNSへの拡散により一定数の効果が見込める。
 Digital Forensic Research Labの調査によれば、日本語圏のSNSでのデマ拡散は、親中・親露、陰謀論コミュニティの間で相互増幅していることが報告されている13

2. 情報戦×外交戦:親中団体の設立
 SNS上での世論操作を展開しつつ、例えばJA支部へ中国NGOを「共同ブランド」「スマート農業」といった名目で接触を図ってくることは十分に考えられるシナリオだ。JA支部の幹部らに「中国優遇策」のメリットを存分に体験させ、「日中食糧協力」を推進する団体の設立を請願させることで、農業組合の分断を図るシナリオだ。これまでの中国の統一戦線工作の手口を勘案すると、彼らがもっとも得意とする手口ではないだろうか。

3. 情報戦×制裁戦:生成AIなどにより作成した偽政府文書のリーク
 これまでも中国は公式の禁輸措置や非公式なボイコット運動、プロパガンダ拡散など影響力行使(シャープパワー)を好んで利用していた。実際、シャープパワーが機能した場合、経済面では、日本の農林水産業者が中国市場を失う打撃が大きい。中国は日本にとって農水産物の重要な輸出先の一つである。近年は新型コロナウイルスの影響もあり、輸出力が減少したとはいえ、水産物や日本酒などは中国人消費者にも人気が高いことを勘案すると、その影響は大きいだろう1415
 そのような状況下で、今後は、生成AIを利用したリスクシナリオも想定すべきリスクだろう。すでにMicrosoft社が日本向け偽情報拡散・文書改ざんを報告するなど、生成AIを利用した情報戦はすでに始まっている16。生成AIにより捏造された政府文書ともなると、私たち一般人には真偽の判別は難しい。これらもやはり、1.と同様に拡散は早いことが予想されるため、その影響は容易に想像がつくところだ。

4. 情報戦×サイバー戦
 3. は生成AIより偽政府文書が拡散することを想定したものであるが、近年では機微情報が多々漏洩していることもあり、実際の内部資料が切り抜かれリークされる恐れもある。食糧安全保障会議などの内部資料の切り抜きリークによる政治不信なども懸念される。
 例えば、フィッシングや政府クラウドなどからの流出文書の一部を切り取り「政府は農家を切り捨て米国に譲歩」といった見出しを付けて公開し、SNSボット網でトレンド化、国会議員に拡散リプライといったことも発生し得る。さらに、追い打ちで中国政府系シンクタンクが日本の政策批判を主とした論評を出すことで、急速な世論悪化が予想される。

 なお、関連のサイバー攻撃に関しては、2024年に、食糧安全保障関係者を標的としたと推察されるサイバー攻撃が確認されている。このサンプルには、中国を拠点とするハッカーが利用するマルウェア(ShadowPad)がアーカイブされていたことが判明している(図参照)。

Food and Agriculture Organization of the United Nations

まとめ 

 「兵糧攻め」は時代を問わず有効だ。米価高騰は食料の重要性を改めて突き付けたが、影響は今後さらに深刻化する可能性が高い。特に懸念されるのは、ソーシャルメディアを介した世論操作で他国に「制脳権」を握られるリスクである。

 政府・民間・消費者が危機意識を共有し、備蓄・生産基盤の強化、情報リテラシー向上、デマ対策の三本柱を同時並行で進めることが、次なる“食料戦”への最良の備えとなると考える。

参考リンク

  1. https://perma.cc/C7DF-TXVN ↩︎
  2. https://www.maff.go.jp/j/basiclaw/index.html ↩︎
  3. https://www.maff.go.jp/j/zyukyu/zikyu_ritu/012.html ↩︎
  4. https://www.fao.org/4/y4671e/y4671e06.htm ↩︎
  5. https://www.unii.ac.jp/erina-unp/archive/wp-content/uploads/2008/01/se8020_tssc.pdf ↩︎
  6. https://rm-navi.com/search/item/2032 ↩︎
  7. https://news.cau.edu.cn/mtndnew/669807.htm ↩︎
  8. https://www.zaobao.com.sg/realtime/china/story20221115-1333320 ↩︎
  9. https://www.reuters.com/world/china/china-raises-2025-budget-grain-stockpiling-targets-higher-domestic-output-2025-03-06/ ↩︎
  10. https://www.reuters.com/markets/commodities/chinas-big-feed-shift-curb-soybean-imports-strain-small-farmers-2025-06-18/ ↩︎
  11. https://www.jacom.or.jp/nousei/rensai/2022/04/220419-58356.php ↩︎
  12. https://udn.com/news/story/124068/8809024 ↩︎
  13. https://dfrlab.org/2025/03/25/japan-tech-chinese-disinformation/ ↩︎
  14. https://www.maff.go.jp/j/press/yusyutu_kokusai/kikaku/attach/pdf/250204-1.pdf ↩︎
  15. https://www.jetro.go.jp/biz/areareports/2024/9e352a73c89a83ae.html ↩︎
  16. https://cdn-dynmedia-1.microsoft.com/is/content/microsoftcorp/microsoft/final/en-us/microsoft-brand/documents/MTAC-East-Asia-Report.pdf ↩︎

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この記事を書いた人

岩井 博樹のアバター 岩井 博樹 株式会社 サイント リサーチフェロー

2000年より株式会社ラック、2013年よりデロイトトーマツにおいてセキュリティ分野の業務に携わり、これまでセキュアサイト構築、セキュリティ監視、フォレンジック、コンサルティング、脅威分析などを担当する。現在は、脅威分析や安全保障分野を中心とした戦略系インテリジェンス生成を専門とするサイントを設立し、主にアジア諸国を中心に日夜分析に勤しんでいる。
経済産業省情報セキュリティ対策専門官、千葉県警察サイバーセキュリティ対策テクニカルアドバイザー、情報セキュリティ大学院大学客員研究員などを拝命する。
著書に動かして学ぶセキュリティ入門講座、標的型攻撃セキュリティガイド、ネット世論操作とデジタル影響工作(共著)などがある。

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