「疑惑」が引き起こす認知戦リスク──日台分断を狙う印象操作の構図

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 日本の半導体産業の希望を標(しる)す明るい発表があった矢先、日台関係の分断を懸念せざるを得ないニュースが舞い込んできた。

 台湾積体電路製造(TSMC)社は世界最先端の半導体製造技術を掌握する存在であり、米中対立の中心に位置する。そのような状況下で浮上した同社の「2ナノ技術流出疑惑」は、単なる企業情報漏洩を超え、台湾の国家安全保障、日米台の技術同盟、さらには中国の対外戦略に直結する問題である。本事案との関連が指摘された東京エレクトロン社は関係を否定している

 本事件は現時点で真偽不明であるものの、報道直後から様々な憶測が飛び交い、特に一部のメディアやインフルエンサーの投稿には、日台分断を想起させる論調が散見される。それは近年、注目されている陰謀論を活用した影響工作の手法との類似性もみられ、認知戦的な観点においても注目すべき事例である。

 そこで本稿では、本報道の事実関係は一旦脇に置き、情報が受信者の立場によりどのように解釈され、拡散されているのかを認知戦の視点で評価する。なお、本稿はあくまで私見であることを付記しておきたい。

目次

陰謀論化する2ナノ技術流出疑惑

 8月5日に前出のニュースが報じられ、その後のニュースでは、東京エレクトロン社が株主として参画するRapidus社も巻き込まれた。筆者が確認した限りでは、Rapidus社を最初に言及したのは中国の金融界の記事である。ただし、この時点では陰謀論的な文脈ではなく、東京エレクトロン社がRapidus社の株主であることや、Rapidus社が2ナノメートルプロセスのチップの試作を開始したことの紹介に留まっていた。

 一方、これらの記事を受けてか、6日以降、中国および台湾の一部メディアやインフルエンサーが、日本のRapidus社の関与を仄めかす記事を掲載し始めた1。現時点ではそのような事実は確認されていない。

 この論調は、X(旧Twitter)などのSNS上でも投稿され始め、様々な意見が確認できる。もはや事実の有無にかかわらず、「疑惑」自体が地政学的に利用され始めているようにも映る。

親中派政治家による情報発信による拡散

 これらの情報発信は、台湾の元立法委員の蔡正元氏の発言によりさらに陰謀論化した。

 同氏は、親中派の政治家として知られており、過去にもたびたび対中融和的な発言や物議を醸す発言をしている2

 蔡氏は、自身のYouTubeチャンネルを通じて、「東京エレクトロンは台湾に子会社を持ち、その立場を利用してTSMCの技術を盗んだと考えられる。日本の本社の誰が、あるいはどの企業がこれを指示したのか明らかになっていないが、背後にはRapidus社がいる」といった趣旨の発言をしている。

 これらの主張は証拠に乏しいが、台湾の政治家による日本企業の名指し非難は、「日台間の不信」を煽る効果を持つことは明らかだ。これは、認知戦の観点からすれば、中国の対外戦略における典型的な「分断工作」と見なすこともできて、大変興味深い。

 今回のように怒りを焚き付ける語り口には、「負」の感情が含まれる。これらの「負の感情(怒りや恐怖など)」は、「高覚醒」を引き起こす感情群に含まれ、共有行動を促進しやすいことが複数の研究により明らかになっている3。つまり、負の高覚醒感情は社会的行動を誘発しやすく、影響工作において戦略的に有効な要素となり得る。もっとも、本件は偶発的な可能性が高いとみられるが、ユーザーが知らず知らずのうちに感情操作を受けていると考えると、SNSの多用は重大な情報リスクと言わざるを得ない。

認知戦的性格を持つ情報発信手法

 今回のような報道に対して様々な意見が飛び交うこと自体は健全である。しかし、蔡正元氏の発言を取り上げた一部のメディアの記事には、認知戦的性格を帯びた情報発信の特徴がみられる。これらの情報発信が意図的かどうかは不明であるが、あくまで発信内容の特徴に着目して評価すると、主に次の3点が挙げられる。

  1.  分断工作:台湾社会に「日本は信頼できるのか」という疑念を注入し、日台協力を揺るがす。
  2.  プロパガンダの外部利用:台湾メディア(例:風傳媒)が発言を見出し化して拡散し、「疑惑」として定着させる。
  3.  帰属の曖昧化:仮に他国関与の可能性が浮上しても、「日系企業の可能性」という疑念が争点を分散させている。

 これらの性格を持つ情報は、SNS上においてエコーチェンバー現象4を生み出し、新たな誤情報を誘発する可能性がある。

半導体サプライチェーン再編への妨害には恰好のタイミング

 今回のケースにおいて、親中派メディアの最大の狙いは、米国の提唱する半導体サプライチェーン構想「Chip4」における日台米連携の妨害であると推察される。そのため、「日本への疑惑」を固定化することは極めて効果的なアプローチであると考えられる。

 では、実際にどの程度の影響が期待されているのだろうか。本件がSNS上においてどの程度の拡散が行われ、どの程度のユーザーが影響を受けるかの測定には時間を要し現実的では無い。そのため、これを検証するため、SocioVerse(SNSをモデル化した仮想環境)を用いて、簡易的に影響拡散をシミュレートしてみた。条件設定の概要は次のとおりである。

• 台湾内の親中派・親日派クラスタを構築       
• 「TSMCへのスパイ活動=日本関与」のナラティブを初期投入  
• 台湾メディアによる一次拡散を再現

 机上での相対評価に過ぎず、正確な評価では無いが、親中派クラスタでは肯定的な再共有が約70%発生し、親日派クラスタでは反論的な共有が約50%、中立的なものが約30%となった。同時に「疑惑」というフレーム自体は持続する。つまり、反論が存在しても「疑惑の存在」そのものは社会的に固定化され得るという結果であり、報じた側にとっては十分な成果であると評価できる。一方、日本にとっては早急に疑惑を払拭し、政府間調整を進めるべき事態と考えるべきであろう。

真偽不明な疑惑は認知戦の武器となる

 真偽不明な「疑惑」は、単なる組織の問題にとどまらず、SNSを介した感情誘導的な情報拡散を通じて、国家間の信頼基盤そのものを揺るがす可能性を孕んでいる。特に、負の高覚醒感情が拡散行動を加速させるという心理学的知見は、認知戦の文脈において戦略的に悪用されるリスクが存在することを本件は示唆していると考えられる。したがって、「疑惑」そのものが戦略的ツールとなり得るという前提に立つならば、国家安全保障の観点から、国民一人ひとりが感情的な情報に安易に反応しない姿勢を持つと同時に、政府等によるリスクシナリオの継続的な評価と予防的対処が不可欠であると言えよう。

  1. 2ナノ技術流出疑惑
    「TSMCの2ナノ技術流出疑惑で急浮上 Rapidusとは何者か──日本半導体産業の逆襲」

    「台积电被曝2纳米商业秘密泄漏 涉案技术或流向日本Rapidus」 ↩︎
  2. 蔡正元氏の過去の発言
    「被問反美親共?蔡正元對中媒親吐真相」
    「蔡正元:親中勢力漸消失 我可能是最後一代」 ↩︎
  3.  E. Ferrara and Z. Yang, “Measuring emotional contagion in social media,” PloS one, vol. 10, no. 11, p. e0142390, 2015.
    「How Does Emotion Affect Information Communication」 ↩︎
  4. 似た意見の人たちだけで交流することで、自身の考えが世間一般でも正しいと思い込んでしまう現象 ↩︎

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この記事を書いた人

岩井 博樹のアバター 岩井 博樹 株式会社 サイント リサーチフェロー

2000年より株式会社ラック、2013年よりデロイトトーマツにおいてセキュリティ分野の業務に携わり、これまでセキュアサイト構築、セキュリティ監視、フォレンジック、コンサルティング、脅威分析などを担当する。現在は、脅威分析や安全保障分野を中心とした戦略系インテリジェンス生成を専門とするサイントを設立し、主にアジア諸国を中心に日夜分析に勤しんでいる。
経済産業省情報セキュリティ対策専門官、千葉県警察サイバーセキュリティ対策テクニカルアドバイザー、情報セキュリティ大学院大学客員研究員などを拝命する。
著書に動かして学ぶセキュリティ入門講座、標的型攻撃セキュリティガイド、ネット世論操作とデジタル影響工作(共著)などがある。

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