イスラエルの認知戦の体制

イスラエルはかねて認知戦には力を入れている国である。とくに世界中のメディアや言論界、学術界、政界を監視し、反ユダヤ主義に圧力をかけ、政治的なイスラエル・ロビーを組織し、支援してきた。2023年10月のハマスのテロから始まったガザ攻撃、対ヒズボラ攻撃、対イランに対しても、強力な宣伝工作を行なっている。その実態の一端はいくつもメディア報道されている。
米国のインフルエンサーを組織化する「エステル計画」
まず対米世論誘導工作に関しては、たとえば『タイムズ・オブ・イスラエル』2025年10月1日付記事「イスラエルのエステル計画の内幕~司法省提出書類が明かす有償インフルエンサー作戦」が興味深い。
同記事によれば、イスラエル政府が複数の民間の広報・コンサルティング企業を使って米国のインフルエンサーを利用する工作を行なっていたことが判明している。その中でも新しい工作として、米デラウェア州のブリッジズ・パートナー社が行なった米国のSNSインフルエンサーを組織・管理・利用する「エステル計画」という作戦がある。同社はイスラエル人コンサルタントが、2025年6月に登記した会社で、つまりはこの工作のために設立された“会社”である。
計画では、各インフルエンサーがインスタグラム、TikTokその他のプラットフォームで月間約25~30件のコンテンツ投稿を行なう。イスラエルのコンテンツ発信者と連携し、米国のマーケティング代理店との提携拡大なども予定されていた。こうした工作により、イスラエルが創るナラティブで米国のメディアとデジタルチャネルを飽和させる。予算は数百万ドルという。他にもParscale社、Havas社(ドイツ)が協力している。
実際、ネタニヤフ首相は9月26日、ニューヨーク市で米国のインフルエンサーのグループと会談し、関係強化に言及している。
ディアスポラ問題相が主導する米国での世論工作
2024年6月の記事だが、『ニューヨーク・タイムズ』の「イスラエルは密かに米国を標的にしている。ガザ戦争に影響力を持つ議員キャンペーン」も詳しい。
同紙によると、米国でのイスラエルの世論工作を主導したのはリクード所属のディアスポラ問題相であるアミハイ・シクリである。彼はもともと強硬派だが、こうした世論工作の必要性をかねて公言しており、2013年のハマスのテロの直後に、イスラエル議会の承認で工作を推進した。実行のために民間IT企業に広く募集がかけられ、同年10月中旬に最初の会議がもたれた。とりまとめ役はテルアビブの政治マーケティング会社であるStoic社で、ディアスポラ問題省から計画に約200万ドルが支出されたという。
工作は同年10月中にまずはXで始まった。その後、Xだけでなく、Facebookやインスタグラムで米国人に成りすました数百の偽のアカウントを使用して、親イスラエル的なコメントを投稿した。特に力を入れたのは、米国議会に対イスラエル軍事支援予算を通すことを目的とした工作で、民主党議員のサイトなどを中心にそれを促すコメントを投下している。
人工知能を活用したチャットボットであるChatGPTが多くの投稿を生成するために使用され、また、親イスラエル的な記事を特集した3つの偽の英語ニュースサイトを作成したという。
同時期の英紙『ガーディアン』の「イスラエルの文書が示す、ガザ戦争をめぐる米国の世論形成に向けたイスラエル政府の広範な取り組み」(2024年6月24日)も詳しい。
同記事では、やはり前出のディアスポラ問題相アミハイ・シクリが主導して、イスラエルの資金を使って米国の大学のパレスチナ擁護運動を封じたり、あるいは米国の法律における反ユダヤ主義を強化するために暗躍したりした様子が解説されている。シクリは少なくとも約860万ドルをロビー活動に投じ、世論の枠組み変更を主導したという。
イスラエルによる世論誘導工作は、比較的わかりやすい手口だが、それでもそれなりに効果もある。たとえば、国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)への悪いイメージを狙ったデマの拡散などで、さすがにUNRWAが下記のように正式に抗議・非難している。
「イスラエル、UNRWAに対する偽情報キャンペーンを継続」(2024年12月04日、UNRWA)
上記によるとイスラエル政府は、世界中の都市の看板などの商業広告や、複数のウェブサイトでの有料Google広告を使用して、UNRWAに対する偽情報キャンペーンを強化しているとのこと。このUNRWAの主張は事実で、欧州議会のリリースでも引用されている。
イスラエルの情報機関とデジタル誘導工作
イスラエルのデジタル影響工作は、以上のようにかねてからの政治的宣伝工作の延長でディアスポラ問題省が中心になって進められているが、各情報機関も手の込んだ工作を行なっている。大枠で言えば、友好国の圏内で反ユダヤ主義言説を封じる工作はディアスポラ問題省が主導するが、それ以外の圏、とくにパレスチナやアラブ圏、イランなどを相手に偽装した情報誘導工作を行なうなどの秘密工作は、情報機関が担当している。
以下、イスラエルの情報機関の概要と、その中でデジタル誘導工作に関係するサイバー部門、心理戦部門などを紹介する。
軍の特殊部隊・情報部隊
軍事情報部(アマン)
イスラエル国防軍(IDF)ではインテリジェンス活動がきわめて重視されており、参謀本部と並ぶ重要部局として「軍事情報部」(通称「アマン」)がある。
軍の情報活動を統括するセクションで、隷下に下記がある。
▽情報部隊(通称「ハマン」)
情報作戦を統括する部隊。
▽第8200部隊
通信傍受を主任務とした信号情報(シギント)機関だが、昨今は特にサイバー戦に力を入れている。米国の国家安全保障局(NSA)と深く連携しており、米メディアなどに稀に出る報道により、ハマスやヒズボラの幹部などをハッキングで特定・追跡していく作業で両者は協力していることがわかっている。
▽第9900部隊
偵察機や衛星などによる画像情報(イミント)機関。
▽第504部隊
スパイを送り込む人的情報(ヒューミント)機関。
▽特殊作戦部
IDF特殊部隊を運用するセクション。隷下に下記の部局がある。
※第81部隊
秘密工作に使用する技術開発を担当する機関。
※参謀本部偵察部隊(通称「サイェレット・マトカル」)
対テロ・ゲリラ戦特殊部隊。
※情報センター
これらのうち、サイバー工作を主導するのは第8200部隊だが、心理戦はハマン、情報センター、第504部隊、サイェレット・マトカルなども行なう。
じつはアマンにはもともと心理戦の専門セクションとして「認知作戦センター」(通称「マラト」)という機関があった。アラビア語話者を中心に集められ、主にパレスチナ社会での認知戦を専門とした機関だったが、現在はこの機関は廃止され、上記したアマンの部隊・機関およびIDFの偵察部隊・情報部隊に広くその任務が付与されている。
イスラエル国防軍の特殊部隊と心理戦
イスラエル国防軍(IDF)で情報活動を行なう部隊は多い。特にガザやヨルダン川西岸、レバノンなどでの対パレスチナ戦、対ヒズボラ戦などで敵地潜入偵察活動を任務とする特殊部隊は、同時に情報活動も行なう。なかでも最強なのは前述したアマン隷下のサイェレット・マトカルだが、それ以外の参謀本部隷下にも特殊作戦に秀でた部隊は多い。
中でも強力なのが、IDF中央司令部第98空挺師団の指揮下で運用される「第89コマンド旅団」(通称「オズ旅団」)で、同旅団の隷下には対テロ専門部隊「第217部隊」(通称「デュブデバン」)、空挺潜入偵察部隊「第212部隊」(通称「マグラン」)、長距離潜入偵察部隊「第621部隊」(通称「エゴス」)がある。
これらの部隊は潜入偵察と同時に、やはり現地での心理戦を行なっているとみられる。デジタル影響工作を本格的に行なっているのは、前述のようにおそらく第8200部隊、ハマン、情報センターらと思われるが、それ以外のこれらの軍の部隊にもアラビア語と現地事情に通じた隊員が多いため、そうした工作にも参画しているケースがあるかもしれない。
モサドの認知戦機関「ラップ」
イスラエルの情報機関といえば、有名なのが対外情報機関「モサド」である。
首相直属の情報機関で、その地位は高い。スパイ活動の大元締めで、正規要員数は非公開だが、約7000人程度とみられる。
モサドの内部部局での筆頭は海外での情報収集を担う「ツォメット」で、次いで秘密の破壊活動を統括する「カエサリア」、海外潜入監視部隊「ケシュト」などがある。心理戦はいずれの部局でも工作員が展開するエリアで実施しているが、その他にも、規模が小さいながら心理戦の専門部局もある。「ロハマ・サイコロジット」という秘密セクションで、頭文字から「LAP」(ラップ)と通称されている。
ラップはとくに仮想敵国での偽情報プロパガンダや、標的を絞った偽情報仕掛け工作を行なっているようで、デジタル影響工作はまさに最重要任務となっていると推測される。
その他の機関の情報活動
その他にもパレスチナなどで潜入工作をしている機関は数多い。主なものが以下で、彼らはそれぞれ潜入対象への心理戦も行なっているとみられる。
▽シンベト
首相直属の治安・情報機関。イスラエル国内およびヨルダン川西岸やガザなどのパレスチナ地域を担当する。
▽国境警察対テロ特殊部隊(通称「ヤマス」)
国家安全保障省隷下の治安機関「国境警察」(通称「マガブ」)所属の特殊部隊。
▽国境警察特別警察部隊(通称「ヤマム」)
国境警察所属のヨルダン川西岸地区専門の人質救出部隊。
▽警察第33部隊(通称「ギデオニム」)
一般警察所属の対テロ特殊部隊。
デジタル工作の民間企業
イスラエルの特徴として、民間にデジタル系ハイテク企業が多いことがある。前述した対米インフルエンサー工作でも民間企業が実行役になっていたが、必ずしもイスラエル政府の下請けばかりやっている企業だけではない。
政府の統制外で不正に活動する企業の興味深い例が、英紙『ガーディアン』のこちらの記事にある。
「ハッキングと偽情報チームが選挙に介入していることが明らかになった」(2023年2月15日)
これは「ジョージ」との偽名で活動する元イスラエル特殊部隊工作員が運営する「チーム・ジョージ」というグループで、もう20年以上前から各国の30以上の選挙での不正な誘導工作で活動してきたという。チーム・ジョージの現在のビジネスは、ハッキングと、不正なSNS選挙誘導工作である。チーム・ジョージとイスラエル政府の情報工作機関の関係は不明だが、こうした存在はおそらく氷山の一角だ。他にも情報関係のビジネスを行なっているイスラエル企業であれば、イスラエル政府と連携しているところは少なくないと見ていい。
国家サイバー局
デジタル影響工作ではないが、イスラエルは政府を挙げてサイバー防衛に非常に注力している。それを担っているのが首相直轄の国家サイバー局(INCD)である。
イスラエルの国家サイバー局の特徴は、官民の協力関係の濃密さにある。イスラエルはとくに軍とデジタル先進企業の関係が濃密だが、国家サイバー局はサイバー防衛の面で民間企業と密接に協力しているほか、サイバー防衛技術の開発でも大規模な支援体制を構築している。こうした面が、イスラエルのサイバー戦の強さに繋がっているが、この協力関係はむろんサイバー防衛に限らないだろう。
対イランのデジタル破壊工作「プレダトリー・スパロー」
2025年6月、イランに対するイスラエルの空爆が開始されるとほぼ同時に、イランに対するサイバー攻撃が実行され、イランの銀行サービスが混乱した。ハッカー・グループはその翌日、イランの仮想通貨取引所「Nobitex」を攻撃した。これらのサイバー攻撃によって、イラン政府は国内のインターネット完全遮断に追い込まれた。
このデジタル破壊工作を実行したハッカー・グループは「プレダトリー・スパロー」(捕食性スズメ)である。2021年よりイランのインフラなどを攻撃している親イスラエルのハッカー集団で、おそらくイスラエル工作機関のフロントだが、組織的背景の詳細はわかっていない。
大規模な対イランの認知戦
2025年10月、イスラエルによる対イラン認知戦の興味深い例が報道された。イスラエル紙『メーカー』『ハーレツ』などで報じられたものだが、ここではそれらをまとめたパキスタン英字紙『ドーン』の記事「イスラエルに資金提供されたキャンペーンは、イランの君主制への回帰を推進する」(2025年10月4日)を紹介したい。
それによると、イスラエルは偽のアカウントを利用して、イランでパーレビ王朝の復活を煽動するデジタル影響工作を推進しているという。AI技術を駆使し、ディープフェイクや偽ニュースなども活用した作戦とのことだ。
イスラエルは対イランの認知戦をかなり大掛かりに行なっている。その手法の全体像については、トロント大学マンク国際問題研究所の研究グループ「シチズンラボ」が詳細なレポート「我々は言う【君たちは革命を望んでいる】プリズンブレイク~イラン政権打倒を狙ったAI活用の影響工作作戦」(2025年10月2日)を発表しているので、興味ある方はぜひご一読をお薦めしたい。
なお、同レポートでは前述の民間選挙介入ビジネスグループ「チーム・ジョージ」および同じような民間グループ「アルキメデス・グループ」について、イスラエル工作機関と過去に関係があり、現在も関係が深い可能性が高いことに言及されている。
