性的なファンタジーが、いかにして陰謀論的な神話を生み出し、政治に影響するか——『オルレアンのうわさ』を読む

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若い女性たちを中心としたデマ

 1969年、フランスのオルレアンで、ある「デマ」が出回った。それは、ユダヤ人が経営する、女性向けの現代的なオシャレな服を売る店の試着室で、女性たちに麻薬が注射され、誘拐され、海外の売春組織などに売り渡されるというものだった。エドガール・モランらはこの事件を調査し、『オルレアンのうわさ』にまとめた。本稿では、この『オルレアンのうわさ』を紐解き、デマと神話の関係について分析し、現代との関係を考えてみることにする。

 このデマを生み出し、広める主役となったのは、若い女性たちだった。リセと呼ばれる学校にいる、日本で言う高校生ぐらいの少女たちを中心にこのデマが広まっていった。後に、それは街全体に広がり、警察や行政やユダヤ人団体などが動くことにまで帰結した。

 その誘拐は、事実ではなかった。行方不明者を警察は把握しておらず、ユダヤ人たちは逮捕されてもいない。しかし、それは警察や行政を牛耳るユダヤ人、そしてそれを報道しないマスメディア、という陰謀論に発展していった。それに対し、ユダヤ人の中からは、これは「ファシズム」の陰謀だという、これまた陰謀論的な「対抗神話」も出てきた。そして、様々な陰謀論が複合していった。

性的ファンタジーと、性的役割の変化

 デマが広まった要因は何か。元々、反ユダヤ主義の陰謀論が、ナチス統治の歴史などもあり、存在していたことは要因の一つではある。イスラエルが当時行っていた戦争で、ユダヤ人に対する政治的な反感が生じていたことも理由ではある。しかし、モランらは、分析の結果として、それは主要な理由ではないのだと判断を下す。他のユダヤ人たちには嫌疑はあまり向いていないからだ。

 モランらは、それが、当時女性に流行した音楽である「イエイエ」などと結び付いた、現代的で洗練されたファッションの店に対する陰謀論であることを根拠に、少女たちの性的欲望や、解放にまつわるジレンマなどが絡んだファンタジー=神話が根本にあり、それが反ユダヤ人的な陰謀論、通俗的な新聞や雑誌の物語などと複合したのではないかと考えている。

 たとえばそれは、このように書かれる。「ミニ・スカート、魅惑的な下着、流行のドレスなどは、それ自体において、着て楽しんでみたいという欲望を象徴化しているだけでなく、また、新しいものの崇拝、若さの誇らかな主張、いつまでも若くいようという意思、パリの女性のような洗練された生活へのあこがれなどをも、象徴化しているのだ。いってみれば、幸福や自由、家庭からの思春期の少女の解放、伝統・慣習からの若い女性の解放、パーソナリティーの構造とか生活のスタイルをも象徴している」(p76)

 1969年は、その前の年に1968年革命があり、若者たちのライフスタイルや価値観などが急速に変貌し、「性の解放」も起こった時期である。そのような社会の急速な変貌の中で、これらの新しいファッションは新しい思想やライフスタイルを体現していた。そのような解放された新しいライフスタイルへの憧れと不安が交錯する場である服飾店が舞台になり、デマを発展させたのが少女たちであるのも、そこに理由があるとモランらは考える。

 試着室は、女性の解放、楽しみ、性的主体化、自由、快楽を象徴する場所であり、自身を性的な、愛される客体へと変身させる場である。

「試着室は閉ざされた場所であり、手洗所と同じように、ちょっとだけタブー的な場所だ。だが、手洗所とは異なり、たいていはカーテンで仕切られただけの不完全な密室である。さらに、試着室はなかに置かれている鏡によって、旅と想像的なものへと開かれている。だから、ここで着がえのために着物を脱ぐことは、自分がそうしていることとストリップ・ティーズでそうすることの中間にあるのだ。本当の自分から、鏡のなかの自分への、親しげであるとともによそよそしいまなざしのもとで、人は自分の姿をじっとながめ、自分を再発見する。若いボーイ・フレンドが少女について試着室のなかへ入っていったり、かれに対してカーテンをちょっとだけあけておくことも稀ではない。下着をつけてない少女たちだっている」「ここでは、ナルシシスムも自己顕示も、ごく素直にふるまうことができる。試着室はどんなはしたないことも、だれもとがめず許してくれる場所なのだ」(p56)

 「旅と想像力」が出てくるのは、デマの内容に海外への旅と、麻薬が含まれていることを根拠にしている。それは、地方都市の無気力や退屈、陰鬱などにあるなかで、今ここから離れる「トリップ」の陶酔と結び付いている。そのような陶酔的な新しい文化への憧れと期待と、しかし不安が同時に少女には生じる。麻薬に陶酔した挙句、性的な客体にされてしまうという不安が出てくるのだ。「だから、それは売春と麻薬という宿命的な結びつきの門を開くだけでなく、ひそかにだが、旅や、アヴァンチュールや、エクスタシーなどの幸福な世界への門も開くのだ」(p78)

 そこには、欲望と不安が交錯する。新しい文化への憧れと、古い文化からの抑圧を、同時に感じるからだ。その矛盾の解決として、性的ファンタジーが誕生する。その空想は、伝統的な性倫理と、新しい解放的な文化への憧れに引き裂かれている少女たちにとって、性的な快楽を満たし解放されるが、同時に自分が被害者であるという点において倫理的非難をすり抜けることが出来るという機能を持っている。「完全な解放と完全な弁明とがなされるという空想=妄想が抱かれる」(p78)。そのような魅惑と機能を持っているがゆえに、うわさ=神話は生まれ、発展し、広がっていったと言うのだ。

性的役割・価値観・文化の変貌の空白に

 ここで、我々は、性的ファンタジーが、「神話」に影響していることを見て取るだろう。オルレアンのうわさは、後にこれは社会全体を動かす政治的な問題と化していく。その背景に、社会の変化、性役割の規範の変化なども結び付いていたことも見逃せない。

「女性はこの領域をさらにこえて先へ進もうと望み、旅を願い、良識に冒険を置きかえ、アヴァンチュールを夢みる。彼女たちの満足感はなお満たされないし、さまざまな期待も不満足なままである。だのになお、潜在的な不安はどんどん増えていく。思春期の少女たちにはおとなの女性になることへの不安があるし、その他の女性たちにとっては伝統的な規範から断たれてしまう不安があり、これら不安は相互に働きかけあって、新しい魅力と不安とを生み出していく」(p77)「伝統的な都市中心、地方の上流ブルジョアの社会などが崩壊し衰退し、しだいしだいに都市の中心が空っぽになってきていることがある。だから、都市中心はもはや都市そのものの超自我として君臨することがなくなってきている」(p84)

 新しい価値観の発展と、古い価値観の衰退。その対立と葛藤の中で、デマや陰謀論は発展する。その陰謀論は、古い価値観や道徳を持っている者たちにとって、新しい文化に憧れを抱く少女たちを諫めるためにも、自分たちの文化的な威信を維持するためにも、有用だった。リセの女性教師たちはそのように陰謀論に加担した。彼女たちは、古い価値観や文化が崩壊することへの恐怖と不安を感じていた。

 価値観が交代するときの、魅惑と不安。葛藤。規範をさらに上位から判断する超越的な審級の不在。これらなどにより、陰謀論=デマ=神話の発展する素地が出来る。ある意味で、その空隙を埋めるためにこそ、神話が生み出され、それを埋めているようにも思われる。

陰謀論と神話の生態系——メディアの違い

 さて、本書の知見を、現代に適用するとどうなるか。

 『オルレアンのうわさ』が扱った1969年と現在の大きな違いがある。言うまでもなくインターネットである。陰謀論が他の陰謀論と複合し、それに対する対抗神話もまた陰謀論として流通する、それ自体はオルレアンと同じなのだが、大きく違うのは、かつては口頭などで広まり、いつの間にか消えて行ったデマが、ネットを舞台にしたことで、消えずに記録され蓄積され発展するようになったこと、口頭で噂を広めるような物理的ネットワークではなく、空間を超えて世界的に結び付いたネットワークの中で展開している点であろう。

 それにより、なんとなく消えたり曖昧になっていった噂が、蓄積され、参照され続け、発展し、巨大化していく現象が起こっているのだ。アメリカの匿名掲示板などで、世界中の何百の陰謀論が結び付いたネットワークの図が作られているが、半ばギャグのようなあの図こそが、現代の陰謀論の特徴を示す。「神話」を求めて生み出す心理を培地に、テクノロジーが相互作用し、これまでにない陰謀論やデマ、神話の生態系を成立させているのである。これまでのように、時間とともにうやむやになり消えていくものとして現代のデマや陰謀論を扱うことが出来ないのは、そのためである。このような量と規模の陰謀論が、恒常的にSNSなどを通じて広範な人々に影響を与え続けるような社会は、今までと異なる質の状況であろう。

現代における性的ファンタジーと陰謀論

 『オルレアンのうわさ』の知見は、現代においてマノスフィアなど、性や欲望に関係する陰謀論的コミュニティが形成されやすい理由に示唆を与える。論理や理性が通用しにくい、性やそれに関するファンタジー、恐怖や不安などが、その生まれる場所となるのだ。

 現代も、1969年前後と同じように、ジェンダー規範や役割などが、大きく変わってきている時代である。女性はより社会的自立に向かい、男性たちは女性的になったり、旧来の男性性の役割の価値低下に適応できないでいたりしている。それら混乱の中で、ジェンダー対立や、陰謀論的なステレオタイプが流行しやすくなっているということはあるだろう。マノスフィアにおける陰謀論や、暇空茜のデマを多くの人々が支持したことなども、この価値観の変容による認知的不協和などから説明できる部分もある。

 女性の視点から見れば、夜職などの誘惑の増大と、それによる危険や不安の感覚という形で今でも同じような「神話」が浮上しているのかもしれない。海外に売られて性奴隷にされてボロボロになる、という話は、SNSで都市伝説的に良く出回っている。女性の誘拐やAV強要などは、女性が性的な自由を行使するようになった時代における不安であり、旧世代的な価値観による懲罰的な神話なのだろうか? 一部はそうであろう。しかし、一部はそうではない。警察が具体的に逮捕した事例、報道や調査などによると、そのような実態も実際にあるところが、判断を難しくさせている。AVの出演強要や、違法なスカウト、半グレなどの暴力的な支配などは、どうも実在しているようである。しかも、信頼できる広範な調査が困難で暗数が多い領域であるので、実態が分からないところに、想像力の余地がある。

 それの逆向きである、女性を支配し性的に恣にするエリートたち、という陰謀論はどうであろうか。このような「物語」は、労働者階級向けのエンターテインメントなどで頻繁に見るので、筆者などは思わずシニカルに見てしまう。ピザゲート事件の場合は、リベラルエリートにおける未成年の買春組織があり、ヒラリー陣営がそれをしているという(トランプ陣営に利益のある)陰謀論が流行した。「Child Porno」とイニシャルが同じなだけの「Comet Pingpong」というピザ屋が拠点だと名指され、少女たちを救出するためにライフルを持った男が乗り込んで発砲したが、もちろん子どもたちはいなかった。それは陰謀論であり、ネットの匿名掲示板で発展したものだった。そこには、性的な自由を享受するエリートたちへの憤激があった。それは羨望と怒りの混じった性的ファンタジーであり、階級的な憎悪であり、無力であり搾取されている自分たちと少女たちを心理的に重ね合わせて行動に移らせたのだと推測される。

 これは、確実にデマだったと分かっている。『オルレアンのうわさ』で、デマや陰謀論への抵抗力を持った人たちの中に、それが「物語」的であることにより懐疑心を抱いたという類型が挙げられているが、このような「安易な物語」でデマに見えるものに対する不信を維持するのが正しい態度なのだろうか? 多くの者が、そのような都市伝説的なゴシップだと思っていたジャニーズの性加害、エプスタインなどの事例を私たちは知っている。これらは、そのような不信と軽視こそが、被害や加害を不可視化してしまう不正義に繋がってしまった事例である。だから、現在では、それが通俗的な物語や都市伝説に見える、というだけでデマだと判断するべきなのかどうかは分からなくなっている。

 さらにややこしいことに、本当の話とデマが混ざりあって流通している実態がある。エプスタインの事件では、西洋のエリートたちが赤ん坊の人肉を食べた、たくさん殺して埋めた、などとセンセーショナルに煽っている。これらを広めるアカウントの中には、西側の信頼を失墜させようとしている工作と思しいものも見受けられる。これらの話は、現在までのところ、調査は行われているが、事実だと確認はされていない。しかし、児童虐待、そのネットワークがあったことまでは、司法が事実認定している。権力者とのネットワークがあったことも事実であるが、彼らが顧客だったかまでは分かっていない。

 どこまでが本当にあった悪事であり、どこまでが陰謀論で、どこまでが権力の隠蔽なのか、適切に見分けることの可能な人間が、どこにいるのだろうか?

 これは、『オルレアンのうわさ』的な「神話」の通俗性への警戒と不信こそが裏目に出て、実際に存在している暴力や加害、陰謀を見逃してしまったケースだと思われる。この両方を我々は知ってしまっているので、陰謀論とそうではないものの区別が、うまく付きにくくなってしまっている。陰謀論・神話的・通俗物語的な形に見えるからと言って、それが本当に存在していないというわけではないケースもあり、それが隠れ蓑になってしまうことを知った上で、真偽を見抜くための認知コストが必要になってくる。調査を行い、事実と証拠に基づいて論理的に判断する、という基本に立ち戻ることが、このケースでは必要なのだと思われる。

「信頼」と「不信」

 理想的には、すべての疑惑をちゃんと調査し、証拠に基づいて論理的に適切に判断されるべきであろう。だが、調査にはコストがかかる。すべてのことを調査するわけにはいかない。しかし、人々の中の疑念が消えない、という物事はあるだろう。調査をしないこと自体が、権力による圧力や隠蔽によるものだと疑いがかかってしまいもする。性暴力や、売買春の実態などは、暗数が多く、調査しないことの不作為による不正義も多い領域であり、それこそがエプスタイン的なものの跋扈を許してきた現実が確かにある。

 そうすると、調査する機関、権力、それ自体への不信が生じる。現在問題になっている、日本における検察庁での性暴力などの問題も、このような、調査し、証拠と論理に基づいて判断を下す存在に対する「信頼」そのものへの疑いが生じる、メタ的な問題なのであり、オルレアンの事例との類似性と差異があるように思われる。

 オルレアンのケースでも、マスメディアや警察など、システムへの不信が、うわさに結び付いていたことを思い出してもいい。これは、1960年代の新左翼的な思想に典型的な、既存のシステムへの不信の影響があるのかもしれない。学校、裁判所、病院、科学、警察などの、「真理」を一元的に所有している抑圧的な権威主義の社会システムに対する叛乱と、システムチェンジが1960年代の「革命」のコアであった。それと、このデマには、つながりがあると思われる。

 政府や、警察、捜査機関、裁判所などが信頼できるのであれば、判断を預けることで、人々は様々な認知コストを節約できるし、社会もうまく回るし、いいことばかりである。しかし、それが実際に上手くいっていなかったり、苦痛を生み出したり、時代と合っていなかったからこそ、1960年代の若者たちが立ち上がった部分もあるのだ。抑圧的で独裁的で強権的なシステムは、そのシステムや管理者が正しくない場合、良いものにはならないのだ。

 そのような妥当な疑いと正義感こそが、社会システムや秩序を維持するために必要な「信頼」を毀損していく。そのような積極工作も行われているだろうと思われる。理想的には、権威が信頼を得られるようにオープンかつクリーンになるべきであるのだが、人間である限り、それにも限界もある(権威主義で、報道の自由や表現の自由のない国では、このコストが少なくて済むという非対称も存在している)。かくして、無限に証明できない悪魔の証明になっていき、調査コストの増大による社会の破壊に陥る危険性もあるのだ。では、それを食い止める、「信頼」をどう作っていくことができるのか。それを考えなければならない。

インセルとマノスフィア

 もうひとつ、現在における性と陰謀論の関係を考える上で、インセルやマノスフィアを例に出すべきだろう。詳しくは筆者の連載『フェミニズムでは救われない男たちのための男性学』を参照してほしいが、彼らが様々なデマや陰謀論を信じてミソジニーになる傾向があるばかりか、この社会のシステムそれ自体に不信感を抱き、不正だと思う傾向がある。世界で一番有名なインセルのエリオット・ロジャーは、射殺事件を起こす前に書いた声明文で、この世界で自分がモテないのは「不公正」で「不正義」であり、それを正すのだと主張していた。

 恋愛や結婚の成功率と、経済的・社会的地位の高さは、男性の場合は相関している。従って、社会的・経済的な敗者は、異性とつがいになることが難しくなる。格差の拡大により、一夫一妻制は実質的に崩壊しており、一夫多妻制に近づいている。この中で屈辱や孤独を感じている者は、現在の社会システムや秩序が不正であると、不信の念を抱くようになるのだろう。

 これらの神話・陰謀論に対抗するために、単に事実や真理を突きつけるだけでは足りないのではないかとも思われる。神話や陰謀論を分析し、その象徴・寓意的な意味、リビドー経済学的な機能、そしてその背景にある社会や文化の状況、変化などを丁寧に見ていき、対処することで、適切に解体していく必要がある。マクロに、経済的・政治的に対応していかなければ、事実や論理や啓蒙で抑え込むことが不可能な、屈辱、無力感、絶望感から来る、安易な救いの「物語」への飛びつきは、抑制することは難しいだろう(フランクフルト学派的な、フロイトとマルクスを織り交ぜた分析が必要なのは、そのためである)。

 政府やシステムを人々が信頼できるようにするためには、そこで生きることが、幸福で、未来に対する希望を抱けるものでなければならない。そうでなければ、ロジックでどう言おうとも、疎外感や無力感に苦しむ者は、このシステムや社会それ自体を「不正」と見做し、信頼するようにならないだろう。現在は、産業構造の転換などで尊厳を失うことになりやすい時代であり、制度なども移行している。格差は拡大し、価値観も大きく変動し、封建主義・独裁的な権力体制に移行することが危惧され、弱き人々は見捨てられ、それが正当化されている。デマや陰謀論を減らすために本当に必要なのは彼らを救うことであり、それこそが、「信頼」を生み出す近道であり、本質的な解決である。

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この記事を書いた人

藤田 直哉のアバター 藤田 直哉 リサーチフェロー

1983年、札幌生まれ。批評家。博士(学術)。日本映画大学准教授。著書に『現代ネット政治=文化論』『攻殻機動隊論』『虚構内存在 筒井康隆と〈新しい《生》の次元〉』『シン・ゴジラ論』『新海誠論』(作品社)『新世紀ゾンビ論』(筑摩書房)『娯楽としての炎上』(南雲堂)『シン・エヴァンゲリオン論』(河出書房新社)『ゲームが教える世界の論点』(集英社新書)、編著に『3・11の未来』(作品社)『地域アート』(堀之内出版)『東日本大震災後文学論』(南雲堂)など。1995年からインターネットに触れ、「ネット万華鏡」(共同通信)「ネット方面見聞録」(朝日新聞)などネット時評も担当。https://x.com/naoya_fujita

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