医療が情報商品化する日――イベルメクチン騒動が暗示する未来の医療

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治療をねじ曲げる著名人の体験談

がん治療をめぐる未証明情報が診察室の外で形成され、診察室に持ち込まれる。
この出来事は、専門誌の論文からではなく、ポッドキャストでの著名人の発言から始まった。

2026年6月19日、英大手オンライン紙『The Independent』は、がん患者のあいだでイベルメクチンとベンズイミダゾール系薬剤の処方が増えているとする研究を報じた
医学誌『JAMA Network Open』に掲載されたミシェル・S・ロックウェル博士ら5人による研究だ。

同紙が記事の中心に置いたのは、俳優メル・ギブソンの発言から始まった一連の出来事だ。
メル・ギブソンは2025年1月9日、動画配信番組『The Joe Rogan Experience』に出演した。
そこで友人がイベルメクチンとフェンベンダゾールでがんから回復したという趣旨の発言をする。
この配信は、複数のプラットフォームを通じて6000万人以上の人々に視聴された。
その後、がん患者に対するイベルメクチンと、フェンベンダゾールを含むベンズイミダゾール系薬剤の同時処方が2025年1月から7月にかけて、倍増したという。

https://www.independent.co.uk/news/health/chemotherapy-cancer-patients-ivermectin-doctors-concerned-b2999170.html

処方箋はどう増えたのか。
研究では、米国67医療機関を含むTriNetXの電子医療記録データを用い、2018年1月1日から2025年7月31日までの処方動向を分析。
対象は18~90歳の患者で、イベルメクチンと、フェンベンダゾールをはじめとするベンズイミダゾール系薬剤の処方動向が調査された。
結果として、2025年1月1日から7月31日までのイベルメクチン・ベンズイミダゾール系薬剤の同時処方率は、2024年の同期間と比べ、全体で約2倍。がん患者に限ると2.5倍以上となっていた。
論文の著者は、生命に関わる病気を抱える人が未証明治療に向かうことで、通常治療を遅らせたり取りやめたりする可能性を懸念している。

https://jamanetwork.com/journals/jamanetworkopen/fullarticle/2848862

イベルメクチンとフェンベンダゾール

イベルメクチンとフェンベンダゾールはなんの薬なのか。
元来はどちらも、体内の寄生虫を駆除するための薬剤である。

『イベルメクチン』
米食品医薬品局(FDA)は、腸管糞線虫症とオンコセルカ症という寄生虫による疾患の治療に承認されていると説明している。

『フェンベンダゾール』
こちらはさらに位置づけが異なる。
米国のがん関連非営利団体(American Cancer Society)は、フェンベンダゾールは動物用の寄生虫感染症に用いられる駆虫薬で、人間を対象とした試験は行われていないと説明する。
また米食品医薬品局(FDA)も、いかなる目的でも人間用として承認していないとしている。
American Cancer Societyは、SNSやウェブサイトでフェンベンダゾールががん治療として宣伝されることがあるが、その主張はデータと事実に支えられていないと警告している。

https://www.cancer.org/cancer/latest-news/what-to-know-about-fenbendazole.html

コロナ期にもあったイベルメクチン言説

新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の際も、似たような事象が起きたのを憶えている方もいるだろう。

流行初期、イベルメクチンが試験管内でSARS-CoV-2の増殖を抑えたという研究が注目され、人での有効性が確立していない段階で、治療薬としての期待が膨らんだ。
今回と同じく個人の体験談が、臨床試験や診療指針よりも強く響いたからだ。
感染してもイベルメクチンを飲めばよい。
だから急いで開発されたワクチンを打つ必要はない。
そう考える人が現れた。

後に人を対象とした臨床試験も行われたが、新型コロナウイルス感染症に対する有効性を示す十分な根拠は得られなかった。
https://archive.cdc.gov/emergency_cdc_gov/han/2021/han00449.asp
https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S2211335522004119

変わりつつある医療情報へのアクセス

この構図は、単なる医療誤情報の問題にとどまらない。
医療情報の入口そのものが変わりつつある現実があるからだ。

2026年6月17日、米国の医療政策研究・世論調査機関(KFF)は、調査報告を公表した。
米国成人の31%が少なくとも月1回、SNSを健康情報や助言を得るために利用しているという。
注目すべきは、SNSを利用する理由だ。
健康情報をSNSで得る人の36%が「同じ病気や似た経験を持つ人から学びたい」ことを大きな理由として挙げている。
個人的な体験談を欲しているのだ。

一方、SNSで健康情報を得る人のうち、情報の正確性を確かめるためにCDCなど政府保健機関のサイトを「毎回」または「ほとんど毎回」確認すると答えた人は21%にとどまる。

https://www.kff.org/public-opinion/kff-tracking-poll-on-health-information-and-trust-use-of-social-media-and-ai-for-health-information-and-advice/

さらに、同機関が2025年1月28日に公表した調査では、公的医療機関への信頼低下も示されている。
2025年1月時点の各公衆衛生機関・当局への信頼度は、2023年6月と比べて以下のように変化している。

  • 米疾病対策センター(CDC):66%から61%へ低下。
  • 米食品医薬品局(FDA):65%から53%へ低下。
  • 州・地方の公衆衛生当局:64%から54%へ低下。

どれも軒並み下落している。

ただし、自分の医師を信頼すると答えた割合については、93%から85%へ低下したものの、今なお最も信頼される情報源であり続けている。

以上のことから、患者は公的機関への不信を強めながらも、医師個人には信頼を残すという歪んだ情報環境に身を置いていると言えるだろう。
https://www.kff.org/health-information-trust/kff-tracking-poll-on-health-information-and-trust-january-2025/

心の隙間に入り込む根拠の乏しい医療情報

これらの歪みは、著名人発の医療情報を起点に、科学的根拠が確認できない医療へつながる土壌を生み出す危険を孕んでいる。
予想される一連の流れは以下だ。
①SNSやポッドキャストで、ある薬が効いたという体験談を聞く。
②重い病気を抱える患者にとって、それは単なるエピソードでは終わらない。
 治療選択肢として鮮明に記憶される。
③患者は主治医に希望をもってその薬について尋ねる。
④医師は「有効性が確認されていない」と説明する。
 患者によっては「否定された」「希望を奪われた」と感じてしまう。
⑤揺れ動く感情に手を差し伸べるのが、次のサービスだ。
 科学的根拠の乏しい自由診療やサプリメント販売、一部のオンライン診療、有料コミュニティ。
 あなたの希望は間違っていない。そう囁いてくれる。
⑥公的医療機関で情報の正確性を確認せず、
 有効かどうかわからないまま、希望だけが膨らんでいく。

投資・美容・ダイエット情報と化す医療情報

今後、医療情報は、投資、美容、ダイエット情報と同じ構造に近づいていく可能性がある。
投資、美容、ダイエットは、本来は専門知識を必要としながら、素人も参加できる領域だ。
成功は利益率、体重、体形、肌、写真で見えやすい。
一方で失敗は「勉強不足」「努力不足」「選び方が悪かった」として個人の責任に収束される傾向がある。

医療情報がこの構造に近づけばどうなるか。
体験談が治療の判断基準となり、治療の失敗は患者自身の責任となるだろう。
失敗しても著名人やインフルエンサーは「選択肢を紹介しただけ」と言い、販売者は「個人差がある」と言い、コミュニティは「信じ切れなかったからだ」と語る。
成功談は大きく拡散され、失敗例は沈黙する。
患者は科学的根拠の強さで医療を選択するのではなく、どの物語を信じるか、誰の物語を信じるかによって治療を選ぶことになる。

だが医療と、投資・美容・ダイエットとの決定的な違いは、医療では「選ばない」という選択肢が存在しない局面があることだ。
投資はわからなければ、参加しないという判断ができる。
美容やダイエットも多くの場合、先送りが生命を左右しない。
だが、がんのような病気では、治療を選択しないことも選択になる。

真の恐怖は「誤情報」ではない

世界保健機関(WHO)は、正確な情報と不正確な情報が過剰に流通し、信頼できる情報を見つけにくくなる状況を「インフォデミック」と呼んでいる。
混乱や健康に有害なリスク行動を引き起こし、保健当局への不信を生み、公衆衛生対応を弱めるとしている。
本来、感染症流行時に用いられる概念だが、医療全般についてもあてはまっていく可能性がある。

誤情報が魅力的で、効果を信じさせる力が強ければ強いほど、天秤のように正規の医療が欺瞞に感じられ、不信は濃くなっていく。
真の恐怖は誤情報が存在することではない。
誤情報が過剰な力を持ち、正しい情報を出しても信じてもらえない状態に至ることだ。

https://www.who.int/health-topics/infodemic

自己責任医療社会

医療不信が高まり、あらゆる医療の誤情報が爆発的に増えた未来はどうなるのだろう。
その社会では、患者は医師、病院、公的機関、標準治療を信じることはできない。
そのため患者は、SNS、著名人、インフルエンサー、体験談、有料コミュニティ、自由診療の情報を渡り歩くことになる。
それらから発信される数多の治療法と、真実とも嘘とも見分けのつかない成功エピソードの中から、自身で治療法を選ぶことを強いられるのだ。
効果があった者は幸運だ。
一方で効果がなければ、その治療法を選んだ自分自身の責任とされる。

その未来で失われるのは、金銭だけではない。
標準治療を受ける時間、病状を抑える機会、なにより命そのものが失われる可能性を孕んでいる。
医療を情報市場に委ねることは、選択肢を増やすことと同じではない。
患者を孤立させる危険も内包している。
これからの医療に必要なものは、追い詰められた患者の希望を安易に否定することではない。
患者が不安を抱えたまま情報市場へ押し流されない仕組みをつくることなのかもしれない。

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この記事を書いた人

脳と心のメカニズムに惹かれ、神経科学や認知の分野を中心に執筆。
複雑な現象に潜む共通性や、本質的な問いを掘り下げることを大切にしています。
情報が溢れるこの時代にこそ、選ぶべきものより「捨てるべきもの」を見極める思考が必要だと感じています。
記事を通じ、新しい認知や価値観に目を向けるきっかけを届けられたら嬉しいです。

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