ベンヤミンの複製技術論から、ポスト・トゥルースを読む

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メディア論的な視座

 ナチス・ドイツが政権を掌握したことで亡命し、後の1940年に自殺を遂げたヴァルター・ベンヤミンは印刷技術、映画などの誕生が、人々の知覚や認識にどのような変化を促し、それが政治的な現象とどう結びつくのかを考察していた。彼の文章は、直観的な洞察に基づいたエッセイ的なものが多いのだが、彼の「メディア論」的な視座は、現在の排外主義や陰謀論が吹き荒れる時代を理解し、解決するための示唆を多く含むだろうと思われる。

 特に、ファクトチェックや啓蒙などでは対処しにくい無意識レベル・情動レベルへのアプローチの必要性を筆者はこれまでも主張してきたが、本論ではベンヤミンが当時映画などの新しいメディアとファシズムの結びつきを分析したことを紹介しつつ、そこから敷衍し、おそらくインターネット・スマホ・SNSにより知覚・認識が変容させられたことが大きな動因であろう、世界的なポストトゥルース現象について考えていきたいと思う。

大衆運動と複製技術の関係

 複製技術が社会に普及してきたことの変化を、ベンヤミンはこのように言う。「伝統の震撼というこの事態は、人類の現在の危機と、新生と、裏表をなす事態であって、この二つの過程は、こんにちの大衆運動ときわめて密接に関係している。この点をもっとも強力に代表するのが映画だ」(「複製技術時代の芸術作品」、多木浩二『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』所収、p142)。二つの過程とは、作品が大量に複製され接しやすくなり、それに「アクチュアリティ」を人々が感じるようなったことである。

 芸術作品に、唯一の単独のものであることからくる「アウラ」と呼ばれる価値がなくなっていくことが、大衆運動の盛り上がりと関係があるとベンヤミンは考えた。「対象をすぐ身近に、映像のかたちで、むしろ模像・複製のかたちで、捉えようとする欲求は、日ごとに否みがたく強くなっている」(p144)「対象からその蔽いを剥ぎ取り、アウラを崩壊させることは、『世界における平等への感覚』を大いに発達させた現代の知覚の特徴であって、この知覚は複製を手段として、一回限りのものからも平等のものを奪い取るのだ」(p145)と。

 「アウラ」を奪うことで、ある特権性を失わせる複製の効果が、「平等」の感覚を促すというのはよくわかるだろう。そして、対象の模像・複製を数多く見るのは、ネットで何かを検索し画像を見る我々の基本的な状態であり、芸能人やインフルエンサーに接近したいという欲求は、その写真(複製)をSNSで見たり、グッズやDVDを買うなどの形で対象に接近したように感じる我々と似ているだろう。そして、ガザやウクライナなどの惨状を常にSNSで映像(複製)として見て取ることで、世界の様々な問題と自分が密接につながって「アクチュアル」になってしまう我々の感覚とも似ているだろう。インターネットやスマホやSNSは、ベンヤミンが新聞や映画に見出した変化の延長線上で解釈されるべき、知覚や認識と大衆運動の変化を引き起こしている装置だと考えられる。

参加型メディアとしての映画と小説

 それだけではない。ベンヤミンは面白いことに、映画を、「万人が」「登場しようとする要求をもっている」(p168)大衆参加型のメディアだと考えており、当時の特権的な書き手が占有していた文学において、読者が書き手になっていく流れと同じように考えている。ある種の特権性を剝奪し、水平・平等になれるという感覚を複製技術がもたらしたのである。これは、ネットにおける専門家や権威、既存のマスメディアに対する敵意と、水平性・平等性の要求とよく似ているだろう。

 ある意味で、ベンヤミンが当時の映画や文学に見た「参加型」「平等」の性質をネットは受け継いでおり、それがラディカルな現在の、上を下に引きずりおろすようなポピュリズムの情動と結びついているのではないかと思われる(当事者性を重視するあらゆる領域での傾向とも似ているだろう)。そこで重視しなければいけないのは、その思想や情動は、理性的に考えられた結果でもなく、個人の思考や感覚ですらもなく、メディアの形式それ自体の無意識のようなものが無自覚にそれに触れる者たちに伝達されているのだと考えられることである。

 映画におけるスターを誕生させる技法をナチス・ドイツは応用し、ヒトラーというカリスマを生みだしたが(直接そのことがこの文章で触れられているわけではないが)、ベンヤミンの考えを敷衍するならば、それは大衆レベルでの知覚の大規模な変容を背景としていたと考えられる。それは、大衆芸術としての映画が観客を「神」のように扱うことと随伴して起こるとベンヤミンは考えていたようである。大衆の欲望を満たす幻想や妄想を提供することを通じて、観客の自我が肥大していったのである。「ファシズムは、大衆に(権利を、ではけっしてなくて)表現の機会を与えることを、好都合と見なす」(p185)。ほとんどSNSのことであろう。人々が自身の信念が、それほどの検討なく「正しい」「絶対だ」と思い込み争い合う現在の政治状況の背景にも、このように参加の機会が技術的に増加したことによる「平等」の感覚、そしてかつてはスターや作家のみが持っていると考えられていた、神のごとき光輝や創造する力が自身にもあるように感じられるようになってきたという大衆の自己認識のメディアによる変化の影響があるのではないか。

「政治の耽美主義」と「技術の叛乱」

 それは「理の当然」として「政治の耽美主義」(政治の美学化)を生むとベンヤミンは言う。どういう「理の当然」なのかは若干曖昧である。「政治の耽美主義」とは、現実の政治や破壊や戦争すら、美的なものとして享楽しうるような精神状態の大衆の支持によって動くような政治ということである。「政治の耽美主義をめざすあらゆる努力は、一点において頂点に達する。この一点が戦争である」(p185)「人類の自己疎外は、自身の絶滅を美的な享楽として体験できるほどにまでなっている。ファシズムの推進する政治の耽美主義は、そういうところにまで来ているのだ」(p187-188)

 それは、映画も生みだした「技術」によって起こる、「技術の叛乱」とベンヤミンは分析していた。「破壊に破壊を重ねる戦争は、社会がまだ技術を自身の手足とするほどまでに十分は成熟していないこと、そして技術のほうも未成熟であって、社会の基本的諸力をまだ捌けずにいることを、証拠だてている」(p187)「帝国主義戦争は、技術の叛乱にほかならない」。いま世界中で起こっている状況、これから起こるかもしれない巨大な戦争もまた、コンピュータ、インターネット、スマホ、SNSなどの技術を社会がコントロールできず、また技術が社会(人々の心など)をコントロールしきれなかったことによって生まれる「技術の叛乱」なのかもしれない。

なぜ複製技術が大衆運動を起こすのか

 「理の当然」のロジックを補うために、書かれたのは「複製技術時代の芸術作品」から20年ほど遡るが、「現代の宗教性についての対話」の一節を見てみたい。そこで、ベンヤミンは、近代や科学による世俗化により宗教や伝統が機能しなくなったことの影響を以下のように述べている。

「過去のさまざまな宗教は、その内部に、困苦や悲惨を包み込んで鎮めていた。その困苦や悲惨が、いまや解き放たれてしまった。そうした困苦や悲惨に対して、ぼくらの祖先は、調停役を務めてくれる正義への信仰から安心感を得ていたのだが、そのような安心感がぼくらにはもはやない。無産階級という意識、進歩という意識、あらゆるものに巣くっている恐ろしい諸力——この諸力を、昔の人びとは、宗教的な礼拝において一定の秩序に従って鎮めることができたわけなんだし、そういったもろもろのものがぼくらを不安にしている。そういったもろもろのもののせいで、ぼくらは、誠実な心をもてないでいる、少なくとも、この心を喜びのうちにもつということができないでいる」(『ベンヤミン・コレクション5』p32)

 複製技術による芸術が「伝統の震撼」を起こし、大衆のメンタリティを変えていく中には、このような「信仰」の機能不全も含まれていた。人生には不安・困難・悲惨・理不尽・不平等があり、それが完全になくなった事態は人類史上一度もないと思われるが、そのことへの不満もまた常にあっただろう。それを納得し慰撫し正当化する装置として、これまでは宗教などが機能する伝統があったとベンヤミンは考えている。しかし、それが機能しなくなり、不安が増大し、誠実な心を持てなくなったとも彼は考えている。ベンヤミンは複製技術によって失われるのは芸術作品の持つ「礼拝的価値」(アウラ)だと言っているが、それは不安を鎮め、自己やこの世界に秩序を感じる宇宙論的な機能と結び付いていたのだろう。それが機能しなくなるならば、結果としてその不満や鬱屈は解消を求めて、社会運動に向かう。それが、社会主義とファシズムという、二〇世紀の二大思想であると、おそらくベンヤミンは考えている。

 コンピュータとインターネットが普及し、哲学では分析哲学が優勢になり、進化論がマスターナラティヴになり、世俗化し合理化された世界観が蔓延し、「コスパ」で対人関係や恋愛・性愛・生殖すらも測るようになった我々にとって、不満と不安が増大し、喜びが減っているように感じられる現在の状況と似ているようにも感じられる。不満と不安は、エリートや既存の権力や秩序、あるいはマイノリティや移民や外国人などに向かっていき、それを破壊することで理想的な状態が起こるという、無自覚な千年王国主義に駆り立てられるようになるのである。ポストトゥルースや現代的なファシズムとは、そのような「技術の叛乱」であると考えられる。

 それを解決するためには、ベンヤミンが示唆するように、社会が技術を制御する方向か、技術が社会を制御する可能性があるだろう。前者がEUの採っている道であり、後者はピーター・ティールやイーロン・マスクや中国が採ろうとしている道であるように思われる。

 ともあれ、彼らの思想や社会の状況を見ていると、大衆的に発生した黙示録的な情熱やユートピア的衝動が、シンギュラリティの夢や加速主義・長期主義などの思想に形を変えて、今なお残り続けているようにも思われる。科学と技術と合理性の世界の中に、非合理な神話や宗教性が再帰してきてしまうのである。

グロテスクさや笑いへの期待

 さて、ベンヤミンがユニークなのは、それに対してまた別の道を模索しているところである。このような技術の進展の中で生まれる大衆の知覚や認識の変容と、それが社会主義とファシズムという両者の大衆運動に影響している現象を見極めながら、ベンヤミンは映画に可能性を見ようとする。ベンヤミンはマルクス主義の影響が強いが、これらの箇所で彼が夢見て言おうとしたことは、マルクス主義や共産主義の公式とは異なっているように思われる。

「技術の進展の結果としてどんなに危険な心理的緊張——この緊張は、危機的な段階に至ると、異常心理の性格をおびてくる——が、大衆のなかに生みだされているかを、よく考察してみるならば、その反問でひとは、つぎのような認識に到達するだろう。すなわち、同一の技術的進展が、そのような大衆の異常心理に抗する心理的な予防接種の効果をもちうるものをも、ある種の映画というかたちで、すでに産出していることである」(p178)。そして、「サディストの幻想やマゾヒストの妄想」を誇張したもの、グロテスクな情景、「無意識のものを爆破するという精神療法的な効果をもっている」(p178)と言うのだ。

 大衆の無意識や、ゲスですらある欲望などを誇張して描き、爆破してしまう。つまり、カタルシスを与えることで、病的な集団心理が改善する可能性をベンヤミンは夢見ている。この意見をそのまま現在にスライドするならば、SNSやショート動画などの中に、そのような無意識を爆破する精神療法的な作用を持つ何かが現れることを期待できるということになるだろうが、その可能性のあるものは何なのだろうか?

「大衆の最もインターナショナルで同時に最も革命的な情動、つまり笑い」(「チャップリン回顧」『ベンヤミン・コレクション5』p576)という発言も、ベンヤミンにはある。また、若き日に書かれた「現代の宗教性についての対話」には、シラーの次の言葉を引用している。「すべての芸術は喜びに捧げられている。そして、人間たちを喜ばせて幸福にすること以上に高貴な使命、それ以上に重要な使命は、決して存在しない」(『ベンヤミン・コレクション5』p28)。

 このような考えを持つベンヤミンは、陰気で黙示録的で、マルクス主義の影響を受けてはいるが、教条主義的で公式主義的な社会主義者ではない。その理想とするビジョンは、ある種の笑いや喜び、幸福に近いものであるようにも思われる。

技術を遊びのために使うことによりファシズムが克服できる?

 その上で、ベンヤミンが映画に見た希望はどのようなものなのか、見ていこう。

「映画の社会的な諸機能のうちでもっとも重要な機能は、人間と機械装置とのあいだの釣り合いを生み出すことである」(p175)と彼は言う。

 そして映画の性質は、役者が生身の観客相手ではなく、機械(カメラ)に向けて演技をすることにあるという。それは、工場労働の機械に支配され閉じ込められている牢獄のような日常や人生において、機械に対する人間の勝利を感じさせてくれる。

「都市住民の圧倒的多数は労働日の続くあいだ、事務室や工場で、機械的な機構に面して、自己疎外におちいらざるをえないのだから。この大衆が晩になると映画館をみたして、映画俳優がかれの人間性を(あるいは大衆にそうと思えるものを)機構に対抗して主張しているのみならず、自身の人間性の勝利のために機構を用立てていることをつうじて、かれらに変わって雪辱してくれているのを、体験するわけなのだ」(p162)

 そして、技術がもたらす新しい地平をも示す。「第一の技術」は「自然を制御」するものだが、「第二の技術」は「自然と人間との共同の遊戯をめざす」(p151)ものだと言う。「こんにちの芸術の決定的な社会的機能は、まさにこの共同の遊戯を練習すること」(p151-152)であり、「この機構との密接なかかわりから、機構に奴隷的に奉仕している現状を変革して、機構を用いての解放を達成しうるためには、第二の技術が開拓した新しい生産力に、人類の心性がまずすっかり適応することが先決問題である」(p151-152)

 技術を「遊び」のために用い、それに習熟していくことで、先に述べたような「技術の叛乱」に我々が巻き添えになり、無自覚に動いてしまう状態を克服できるかもしれない、ということが期待されているのである。

 これを、現在に敷衍して考えるとどうなるだろうか。我々はもはや工業が中心の世界におらず、工場で機械に奉仕しているわけではない。代わりに、コンピュータやインターネットなどに繋がれて、それを用いたり、それに用いられたりする仕事に従事している。牢獄は物理的にではなく、心理的に生じる。

 ベンヤミンの思索を受けて考えるならば、人々が参加型の政治や陰謀論などに参加するのは、このような自己効力感と解放を感じたいからなのかもしれない。陰謀の主体は特定の勢力というよりは、この労働・技術的環境そのものであり、それが加速させる新自由主義であり、そのグローバル資本主義と終わりなき危機が続き適応の努力を強いる労働からの解放を願い、人間性の回復と勝利を感じたいのではないか?

 知識労働、コミュニケーション産業、創造産業が主流化した世界、「テクノ封建制」や「デジタル独裁」と呼ばれる支配と搾取に晒されている我々は、日々SNSに描き込んだり、YouTuberになったり、ゲームをすることで「自身の人間性の勝利のために機構を用立てている」のだろうか? そこに可能性があるのだろうか? 現代的なファシズム的な思想は、2ちゃんねるや4chanのような匿名掲示板の遊戯性の中から生まれたようにも思われる。しかし、そのような思想をも飼いならす能力が、ネットやゲームでの「遊び」の中で身に付くのだろうか?

機械との共進化の道を探るために

 なにはともあれ、ポストトゥルースや陰謀論の蔓延する現在の状況を、20世紀的な人間モデルで考えすぎてしまうならば、有効性は限定的なのではないかとも思われる。それゆえ、本論ではベンヤミンが「複製技術時代の芸術作品」において、映画が普及し始めた時期に対して行った考察を読み、コンピュータやインターネットやスマホが人々の知覚や認識や大衆運動を変えていった時代をどのようにメディア論的に考察できるのかを探り、現在の状況と比較した。

 その流れで行けば、現状を、技術が人間の知覚や認識、欲望などを変えてしまった結果として、人間と技術のサイボーグ状態になった主体が起こしているある種の叛乱だと認識する視座が得られる。その叛乱に対して有効なのは、言葉や説得による啓蒙的なアプローチなのか、技術そのものへの介入なのか、ゲームや遊びや芸術の方向性なのか、様々な可能性をベンヤミンは示唆しているように思われる。

 ネットを舞台に広がり、路上などでも燃え広がっている、21世紀的なファシズムと言われる世界的な状況が、戦争に帰結し巨大な破壊を導かないように、私たちはより良い機械との共進化をしていく必要があるのだろう。AI時代にはそれはますます深刻な課題となる。政治的対立や党派性、イデオロギーのみを見るのではなく、このような技術的・メディア論的な視座を持たなければ、解決は難しいことになるように思われる。

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この記事を書いた人

藤田 直哉のアバター 藤田 直哉 リサーチフェロー

1983年、札幌生まれ。批評家。博士(学術)。日本映画大学准教授。著書に『現代ネット政治=文化論』『攻殻機動隊論』『虚構内存在 筒井康隆と〈新しい《生》の次元〉』『シン・ゴジラ論』『新海誠論』(作品社)『新世紀ゾンビ論』(筑摩書房)『娯楽としての炎上』(南雲堂)『シン・エヴァンゲリオン論』(河出書房新社)『ゲームが教える世界の論点』(集英社新書)、編著に『3・11の未来』(作品社)『地域アート』(堀之内出版)『東日本大震災後文学論』(南雲堂)など。1995年からインターネットに触れ、「ネット万華鏡」(共同通信)「ネット方面見聞録」(朝日新聞)などネット時評も担当。https://x.com/naoya_fujita

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