崩壊の危機に瀕するアメリカの選挙インフラ:急増する脅迫と止まらない実務者の「頭脳流出」

アメリカの民主主義の根幹を支える選挙管理システムが、かつてない危機に直面している。2020年の大統領選挙以降、選挙不正を主張する陰謀論の蔓延と、それに伴う選挙管理担当者への暴力的な脅迫が急増した。その結果、熟練した選挙実務者が次々と辞職に追い込まれる「頭脳流出(Brain Drain)」が加速しており、このままでは公正で安全な選挙の実施そのものが危ぶまれる事態となっている。超党派の政治改革団体「Issue One」および戦略対話研究所(Institute for Strategic Dialogue、以下 ISD)が発表した2つの最新レポートは、アメリカの選挙インフラが崩壊の瀬戸際にあることをデータを用いて浮き彫りにし、Andrew HowardによるPOLITICO掲載の「Election officials grapple with a brain drain as threats rise」(URL: https://www.politico.com/news/2026/02/03/election-officials-threat-midterms-00761210)は2つのレポートをもとに警鐘を鳴らしている。
西部11州で進む選挙管理要員の大量離職
Issue Oneが2026年2月に発表した報告書『Turning the Tide on Turnover』(URL: https://issueone.org/articles/turning-the-tide-on-turnover/)によると、アメリカ西部の11州において、2020年11月以降、地域選挙管理官(chief local election officials)の50%がその職を離れたという衝撃的なデータが示された。この数値は、同団体が2023年に行った調査結果からさらに10ポイント上昇しており、実務者の流出に歯止めがかかっていない現状を如実に物語っている。
調査対象となったのは、アリゾナ、カリフォルニア、コロラド、ネバダなど西部11州であり、これらの地域は人口の多さや政治的な激戦州(スイングステート)を含むことから、全米の縮図とも言える。特に深刻なのがアリゾナ州で、同州ではトップの選挙管理者の交代率が100%に達し、すべての郡で経験豊富な担当者が入れ替わる異常事態となっている。
この大量離職の主たる原因は、定年退職や選挙での敗北ではない。報告書は、離職者の約76%が「個人的な理由」による自発的な辞任であることを指摘している。これに対し、選挙での敗北による交代はわずか5%に過ぎない。これは、多くの実務者が職務の重圧や外部からの圧力に耐えかね、任期半ばで自ら去ることを選んでいることを示唆している。
激戦地ほど高い「消耗率」と専門知識の喪失
Issue Oneの分析で特筆すべきは、政治的に拮抗している地域ほど、選挙管理者の離職率が高いという相関関係だ。2020年の大統領選挙において、得票差が僅差(5%以内)であった「激戦郡」では、選挙管理者の80%が職を辞している。これに対し、勝敗が明確だった(得票差50%以上)郡での離職率は40%にとどまっており、競争の激しい地域ほど、担当者が晒されるストレスや監視の目が厳しいことを裏付けている。
また、人口規模による格差も顕著である。人口50万人を超える大規模な郡では60%が離職しているのに対し、小規模な郡では45%であった。大規模な自治体ほど陰謀論の標的になりやすく、実務への負担が増大していることが背景にあると考えられる。
こうしたベテラン職員の流出は、単なる欠員以上の深刻な問題を孕んでいる。選挙管理には州法や連邦法の複雑な知識、投票機器の操作、物流管理など、高度な専門知識が要求される。経験豊富な人材が去ることで、これらのノウハウが失われ、新たな職員の採用と育成には多大なコストと時間がかかる。結果として、選挙運営の効率性と正確性が損なわれ、有権者の信頼低下を招く悪循環に陥るリスクが高まっている。
暴力的なレトリックの「常態化」とオンライン上の脅威
実務者を辞職へと追い込む最大の要因として、ISDの報告書『‘Tick tock traitor:’ The rise of violent rhetoric targeting US public officials』(URL: https://www.isdglobal.org/digital-dispatch/tick-tock-traitor-the-rise-of-violent-rhetoric-targeting-us-public-officials/)は、公務員に対する暴力的なレトリックの急増を挙げている。ISDの調査によれば、2021年10月から2022年9月の期間と比較して、2024年10月から2025年9月の期間では、公務員に対する暴力的な言説が200%以上増加したと報告されている。
ISDのCEOであるサーシャ・ハブリチェク氏は、「オンライン環境の匿名性が人々の行動を過激化させており、暴力的なレトリックが常態化し、許容されるようになりつつある」と警鐘を鳴らす。特に、ドナルド・トランプ前大統領に対する暗殺未遂事件以降、オンライン上の脅威は沈静化するどころか、むしろ「報復」を扇動するような形で激化しているという。
脅迫の対象が党派を問わないが、ISDのデータによると、共和党の指導者層(特にトランプ氏)に対するオンライン上の脅迫は364%増加しており、これは民主党に対する増加率(124%)を大きく上回っている。政治的な立場の左右に関わらず、公的な職務にある者すべてが暴力の標的となり得る状況が形成されている。メイン州のシェナ・ベローズ州務長官(民主党)が自宅の住所を晒される「ドキシング(doxing)」被害に遭ったように、選挙管理者たちは職場だけでなく、私生活においても物理的な危険を感じながら職務にあたらざるを得なくなっている。
具体的な崩壊の兆候:アリゾナ州コチーズ郡の事例
現場の混乱を象徴する事例として、Issue Oneの報告書はアリゾナ州コチーズ郡の状況を詳述している。同郡では、2020年の選挙以降、選挙局長のポストに5人もの人物が入れ替わりで就任するという事態が発生した。
発端となったのは、当時のリサ・マッラ局長の辞任である。彼女は、全投票用紙の再集計という違法な要求を行った郡監督委員会と対立し、「身体的・精神的に脅威を感じる職場環境」を理由に辞職した。その後任者たちも、「選挙懐疑派からの嘲笑や脅迫」によるストレスや健康問題を理由に、わずか数カ月で次々と職を去っている。
同様の事例はカリフォルニア州シャスタ郡でも見られ、20年近く務めたベテランのキャシー・ダーリン・アレン氏が、選挙環境に起因するストレスが心不全を悪化させる懸念から引退を余儀なくされた。これらの事例は、個人の耐性を超えた圧力が選挙実務者に加えられており、組織としての継続性が物理的に維持できなくなっている現状を示している。
民主主義の持続可能性への提言
「このままでは、仕事をしたいと思っている人々が、仕事以外の事情によって職を離れざるを得なくなる」。アリゾナ州のエイドリアン・フォンテス州務長官がPOLITICOの取材に語ったこの言葉は、現在の選挙管理システムが抱える構造的な欠陥を突いている。
Issue Oneの報告書は、この危機的状況を打開するための提言として、以下の3点を挙げている。
- 選挙管理者の保護強化:
ドキシングの禁止や、選挙職員への嫌がらせに対する罰則の強化など、法的な保護枠組みを整備し、彼らの身体的安全を保障すること。 - 次世代の人材確保:
アリゾナ州で実施されているフェローシップ・プログラムのように、若年層を選挙管理業務に積極的に登用し、新たな人材パイプラインを構築すること。 - 財政的・制度的支援の拡充:
予算不足に悩む地方自治体への財政支援を行い、選挙管理者の待遇改善や業務負担の軽減を図ること。
2024年の大統領選挙を経て、2026年の中間選挙に向けた準備期間において、これらの対策が講じられなければ、選挙を実施するための人的基盤が完全に崩壊する恐れがある。選挙不正を叫ぶ声が、皮肉にも公正な選挙を守る人々を排除し、システムそのものを機能不全に陥らせようとしているのが今のアメリカの実情である。
