なぜ、「リベラル」は、抑圧的だといわれてしまうのか? マルクーゼの理論から考える〈前編〉

対ナチス・ドイツ政策に関わった学者
ポストトゥルース、偽情報や陰謀論が政治的な有効力を持つ状況を理解するために、第二次世界大戦前後のドイツの様子を見て、社会心理学的な分析をしてきたフランクフルト学派の著作を、これまで参照し、現代と比較してきた。
今回は、ヘルベルト・マルクーゼを扱う。マルクーゼは、フランクフルト社会調査研究所の一員だったが、アメリカに亡命し、対ナチス・ドイツの政策にも関わった人物である(戦略情報局で書いたレポートは『フランクフルト学派のナチ・ドイツ秘密レポート』にまとめられ刊行されている)。そして、1960年代に隆盛した新左翼に大きな影響を与えた。
主著『エロス的文明』を中心に彼の考えを参照することで、その理論から現在を分析するとどうなるのかが、今回の主題である。彼の理論を参照すると、現代における「リベラル」への反発の心理メカニズムを理解する助けになるのでないかと思われる。
抑圧による社会化と、その反動
最初に、ポストトゥルースの理解の補助線となるであろう、彼の考えの中心を、大まかに紹介しよう。
マルクーゼが、ナチス・ドイツの凶行の原因として挙げるのは、理性、生産性追求、官僚制、近代合理主義などである。野蛮な殺戮と非合理性が吹き荒れたナチス・ドイツの蛮行を、逆説的に、近代や理性や管理システムの行き過ぎへの反発だと考えた。
「急速な進歩は、急速な不自由と結び付いて」おり、「産業文明の世界では、いたるところで、人間の人間による支配が、その規模と能率を増大して」おり、「強制収容所、大量殺人、世界戦争、さらに原爆は、『野蛮への後退』ではなく、現代の科学、技術および支配の成果を無制限に応用した結果」であり、「人類の物質的、精神的な進歩」が「もっとも効果的な奴隷化と破壊」(p2)につながってしまうのだと彼は言う。
それはどういうロジックなのだろうか。『エロス的文明』では、フロイトの集団心理学的著作「文化への不満」「幻想の未来」などを参照し、個人の内面と社会との複雑な関係性を解き明かそうとしている。「心理学の諸問題は、政治問題に転化する。個人の私的な障害は、いよいよ、社会全体の障害を直接反映するようになり、個人の障害の治療は、ますます、社会一般の障害の解決に依存するようになる」(ii)と彼は言う。個人心理と政治に関係があるという見立ては、ライヒなどと共有しているのである。
マルクーゼが依拠する、フロイトの理論を簡単に紹介しておこう。フロイトは、心のダイナミズムを、快感原則と現実原則の二元論で考えた。快感原則は、快を求める心の動きであり、現実原則は、生きるために必要なことに関係するものである。
たとえば、快感原則において「俺は神だ」と思うと、自我が肥大化して気持ちいいのだが、自分を本当に神だと思って空中を歩こうとすると、崖から落ちて怪我をすることになる。「自分は天才だ」と思うと気持ちがいいが、実際に活動をしてみると売れず、飯が食えないという壁にぶつかる。快感原則と現実原則は、そのような形で対立して現れる。
人間は、母と一体であり心配も苦労もなかった胎内の状態から、出産によって外界に立ち向かわなければいけない状態に移行する。ここで最初の外傷を得る。幼児には万能感があるが、やがてそれを「教育」によって捨てていく必要が出てくる。教育とは、食っていくため、生きていくために、快感原則の抑圧を内面化させていくような作業である。自然環境で過酷な暮らしをしていた時代には、そのような生きるための掟を体現し、教えるのは「父」の役割だった。文明とは、そのような抑圧の積み重ねの上に高度化していったと、フロイトとマルクーゼは考えている。遊んでいたい、という快感原則を抑え込み、勤労に差し向け、協働していくことで文明は発達したのである。それにより生産性が上がり、飢餓などは減っていき、宗教や法や芸術などの高度な仕組みも生まれていく。
教育≒文化≒文明化は、本質的に、快感原則の抑圧の上に成り立っている。そして、そのような抑圧は内面化され、自身で自身を抑圧し、支配するようになる。たとえば、思う存分遊ぼうとしたり、性的な快楽に浸ろうとしたときに、不安や罪悪感が出てくるのは、内面化された現実原則の働きであると考えられている。
それは、法や規範などの形を取って社会的に体現される。それは、人と人が共存していくためには重要な仕組みではあるのだが、行き過ぎると、個人の場合には様々な精神的病理が生じるとフロイトは考え、社会においてはナチスに体現されるような野蛮が訪れるとマルクーゼは考えた。「自己抑圧が、また、逆に支配者とその制度を支持するようになる」(p14)という記述は、いわゆる権威主義的パーソナリティの心理の分析であろう。
そのような抑圧は、無限に可能ではない。「抑圧されたものの回帰」と呼ばれるフロイトの考えがあるが、抑え込んだ欲望などは、形を変えて(病理などの形で)噴出してしまうと彼らは考えた。「無意識のなかには、個人の精神発達の途中で、完全な満足が得られた時期の記憶が保存されており、その過去は、未来にむかって要求をつづける」(p16)。
つまり、母親の胎内にいたころ、あるいは幼児期の幸福に戻りたいという欲望が人間には常にあり、それが未来に投影されればユートピアや千年王国の実現という社会思想に繋がり、過去に投影されれば懐古主義・復古主義に繋がっていくと彼らは考えた。「母なる」ものに戻りたいという欲求が生じ、退行が起きるのである。そして、そのような記憶は、解放されると「抑圧された個人の合理性を吹き飛ばしてしまう」「幼児期に禁じられた心像や衝動は、理性が否定する真理を語り始める」(p16)
社会学者のジグムント・バウマンは『退行の時代を生きる』の中で、競争社会や流動性などに疲れると、「母」なるもののイメージが、国家や民族に投影され、退行が起きるのだと、現代社会について分析している。「お母さん」になると主張する政治家が支持を得る背景にも、人々の現実世界での疲弊により、胎内に回帰し回復したいという心情の高まりがあるのではないかと思われる。それは、論理や理性とは別の「真理」を語り始めてしまうのである。ポストトゥルースにおいて、事実や論理による啓蒙が機能しにくくなっており、別種の「真実」が影響力を持っている状況を理解するために、このような心理学的な分析は参考になるのではないか(もちろん、現代の水準の統計学や実験などの裏付けは必要なのだろうと思うが、その手前の仮説的段階の視座においては今も有益であろう)。
抑圧が行き過ぎると、攻撃性や野蛮さが回帰する
快感原則≒エロス的な欲望を、人間は抑えなければいけない。常にすべてが満たされ望みが叶う状態を、人は王や神などに投影し、憧れを抱くが、それが本当に現実化したら自他に破壊的なことになる。だから、抑圧自体は必要なものである。
マルクーゼが主に問題にするのは「過剰抑圧」である。人間には幸福になろうとするベクトルと、無機物=ニルヴァーナの状態(つまり、緊張のない状態)を目指すベクトルがあり、後者を「死の本能(死の欲動)」と呼ぶ。労働や社会維持のために、法や教育や規範によってエロスを抑えれば抑えるほど、「死の本能」に力を与えることになるとマルクーゼは言うのだ。「エロスをたえず制限していることが、けっきょく、生の本能を弱め、そうして、生の本能が『召集されて』たたかう当の相手である、破壊本能の勢力そのものを強め、解放することになる」(p37)。その考えの背景には、「生の本能」と「死の本能」の二元論で人間の内面や社会を理解しようとするフロイトの考えがある。
ややこしいが、このメカニズムをもう少し詳しく説明しておこう。これは、現代の「リベラル」と「保守」の対立の構造に別種の角度から光を当て、理解の視座を変える可能性のある議論だからだ。
エロス≒快感原則を過剰に抑えることが、なぜ死の本能≒破壊本能を高めるのか。それは、快感原則を抑える超自我の仕組みと関係がある。それでは生きていけない、という、自然や社会からの要求が、現実原則の根源にあるが、それは文明の発展と共に「父」の禁止ではなく、法や規範として社会的な装置となり、個人に内面化される。その内面化されたものを超自我と呼ぶが、それが、自身の自我や無意識を、理性によって支配する仕組みが個人の中にできる。
この超自我があまりに強すぎると、自身に対する攻撃が苛烈になり、鬱や希死念慮などにつながっていき、罪悪感や不安も増大するとマルクーゼは言う。フロイトのこの言葉をマルクーゼは引用している。「人間は、他人にたいする自分の攻撃的な傾向を抑えるほど、自分の自我理想ではいっそう、暴君的、攻撃的になる。……また、自我理想の自我にたいする攻撃的な傾向も、より強烈になる」。
強すぎる超自我が快感原則を抑圧した結果起こる憂鬱症では、「死の本能の純粋な文化が、超自我を支配する」(p46)。そして、「文明の進歩そのものが、増大していく破壊力を解放するように導く」(p46)悲劇的な逆説が起こる。これが、高度に理性的で科学的で生真面目なドイツにおいて、ナチス・ドイツの神秘主義や神話的なプロパガンダを国民が支持し、ユダヤ人の大量虐殺を行った背景にある心理的なメカニズムだと、マルクーゼは考えている。
自分に対して厳しければ、人にも厳しくなるというのは、経験的によくわかるだろう。勤労のために様々な欲望や自由を抑圧している人間ほど、他者のそれが許せなくなるということも、よく分かるだろう。
「リベラル」「朝日新聞」への反発——法や道徳の形を採る「家父長制」の抑圧
このような、快感原則≒エロスを抑圧し、過剰抑圧を強いる力は、理性という形を採る。典型的な分かりやすい形で言えば、「そんなことしていたら食えない」「生きていけない」という親や教師などの言葉として現れる。生存のための必然性という起源を現実原則は持つが、あるレベルを超えると、本当に必要な域を超えて自己目的化するとマルクーゼは言っている。そのような現実原則、あるいは(社会の中で生きるための)実行原則の命令は、「父」の形を取る。マルクーゼは、そのような現実原則・理性の抑圧を「家父長制」と結び付けた。
これは、上野千鶴子ら、第二派フェミニズムに大きな影響を与えただろう。論理や理性などを「家父長制」と結び付け、エロス的なものを解放し、個人レベルでの支配の構造を解体し、社会全体の攻撃性や暴力性を減らすという理路になっているのである。
そのような「父」の支配は、道徳や法の形を採るとマルクーゼは考えた。そして、それらは匿名的なシステムとなり、管理社会を形成していくと考えた。
心的なメカニズムのレベルで言うならば、このような「父」は、政治思想が右の人からも、左の人からも現れる。保守の人からもリベラルの人からも現れる。たとえば、細かいことまでマイクロマネジメントし数量化し書類の提出を義務付けるような仕組みは「新自由主義」のものだとして非難されるが(マーク・フィッシャー)、リベラル派やフェミニズムが進めているように見られているポリコレやコンプライアンスもまた、「家父長制的」に抑圧するシステムとして心的には受容されうるのである。ネット右翼やリベラル嫌いの心理構造について、学校の校長や先生たちの欺瞞的な抑圧への反発が原体験として出てくることが多いが(藤田直哉×安田峰俊「SNSの功罪、2ch的文化再検討の必要性」『週刊読書人』2024年8月9日号、雨宮処凛「雨宮処凛が行く!」第751回「ママ戦争止めてくるわ」と『新しいリベラル』と、特殊な界隈で特殊な訓練を長期間受けてきたという自覚について。の巻」)、「朝日新聞」「日教組」などは、そのような抑圧の象徴であり、マルクーゼ的に言えば「家父長制的」なのである(生真面目で潔癖症的過ぎるタイプのフェミニズムの禁欲主義に対する反発も、同様の心的メカニズムが推測される)。
快感原則を抑圧すれば、この理論からすると、抑鬱が増えてしまう。抑鬱は超自我による自我への攻撃であり、罪悪感と不安が増大する。そして、耐えきれなくなった自我は、その攻撃衝動を外に向けるようになる。差別やヘイトはそのように起こる。外国人に対する若者の不満は「ルールを守らないことにある」と仁平典宏は分析しているが(「寛容でルール重視の若者たち リベラル自認層の票、自民に流れた一因か 社会学者・仁平典宏東大教授に聞く」『朝日新聞』2026年2月17日)、精神疾患や自殺率が急上昇している日本の若い世代がこのようなメンタリティになりやすいことは、以上の理論と符合するように思われる。
このような、社会のシステムと内面化された超自我による支配は、無意識や快感原則にとっては息苦しさを感じさせる。現在の過酷な労働環境に適応し、競争し続け、産業構造の転換にもついていかねばならない生を生きている我々は、資本主義の仕組みを内面化し、サバイブするために現実原則を内面化し快感原則を抑圧している。そして、左派やリベラルの発言も、例えば「戦争になる」「差別の果てに虐殺が起こる」など、死を根拠とした倫理的脅迫に近いものになりがちであり(筆者はその使命感に共感するし、そういう語りをよくしてしまうが)、それもまた現実原則として快感原則を抑圧するのである。「正しい」ことに拘る者が、攻撃的な言動になってしまい、忌避されるような現象も、同様のメカニズムであろう。
このような「出口なし」の感覚の中で、「FIRE」(資産を貯めて労働から離脱する)などの形でその外に出て安息を得たり、資本主義や技術革新の果てに外部が到達し「EXIT」出来るという加速主義的な幻想と欲望が発生する。それは、論理ではなく、「抑圧された個人の合理性を吹き飛ばしてしまう」「幼児期に禁じられた心像や衝動は、理性が否定する真理を語り始める」ような心理の傾きが求めて吸引される「幻想」「物語」であろう。黙示録的な政治思想や、母なる国や民族への回帰を語る政治思想も同様である。そして、息苦しいからこそ、法やルールを超えて振舞うような権力者——トランプや石丸など——に支持が集まるのではないか。法やルールを生真面目に守るという性質と、それを破る(幼児的な振る舞いをする)者への支持という逆説の背景には、そのような心理メカニズムの存在が推定される。
(後編につづく/後編は3月23日公開予定)
