なぜ、「リベラル」は、抑圧的だといわれるのか? マルクーゼの理論から考える〈後編〉

前編のあらすじ
マルクーゼは、生産性追求や官僚制、近代合理主義が人々に過剰な抑圧を強いたことが、その反動としてナチス・ドイツの野蛮な殺戮や非合理性を産んだと論じた。社会は「快感原則」を抑圧する「現実原則」によって成立しているが、その抑圧が行き過ぎると、人々の死の本能・破壊衝動を高め、支配や破壊や暴力、果ては自身の破滅による「快感原則」を求めるようになると彼は分析している。現代では、リベラルの道徳的要求や規範の強調が息苦しいと感じられ、その反動として、トランプや石丸などの法やルールを超えて振舞う権力者に支持が集まるのではないだろうか。
エロス的文明の実現による、破壊・暴力・野蛮の克服
では、そのような、文明の「進歩」が逆説的に「死の本能」(抑鬱、破壊、野蛮、暴力)を増やしてしまう逆説に対して、どのような解決があるとマルクーゼは考えたのだろうか。
その思想こそが、新左翼に大きな影響を与えたのである。
マルクーゼの考えは、現実原則による「抑圧」「超自我」を弱め、快感原則、エロスなどを解放することによる、新しい文明の段階=エロス的文明に移行することで、進歩による暴力の解放という悪循環から抜け出せる、というものだった。
あくまで問題は「過剰抑圧」であり、文明、というか、人間が労働し協働して生きていくためには「抑圧」は必要である、だから「過剰抑圧」のみを取り除けばいい、というのが真っ当な診断であろう。それに留まらず、抑圧も労働も全的になくせるのではないか? と考え主張したのが、マルクーゼのラディカルなところである。
マルクーゼは(合理的な権威と支配と、過剰抑圧と必要な抑圧とを分けて考えているが)、やがてあらゆる快感原則の抑圧がなくなる社会が訪れるかもしれない、社会において生産性が増大しオートメーションが普及すれば、生存のために現実原則に支配される割合が減っていき、エロス的な文明が訪れるかもしれないと語っている。
そこで言う「エロス的文明」とは、セックスし放題ということではなく、むしろ、性器的な性行為を特権化せず、互いに支配や所有もないような状態である。誤解されがちであるが、新富裕層やエプスタインらのやっているような金と権力で他者を思いのままにするような遊びは、マルクーゼ的には肯定されるものではない。「絶望的な、大衆社交界の『花形』、がつがつした拝金主義者の群、刑務所や捕虜収容所の看守などにみられる、サディスティックな、またはマゾキスティックな乱行」は「専制的な支配者」の「抑圧された性」(p183)の爆発に過ぎず、否定の対象である。それは、支配や権威主義的パーソナリティの現れであり、マルクーゼが克服したいと願っていたものである。
マルクーゼが理想とするのは、オルフェウスやナルキッソスをモデルとした、遊びと仕事の区別もなくなり、あらゆる存在が何かのためではなく、それそのものの存在の美しさが享受され、自然も自身もただ単に美として享受されるような、美と生活が融合した世界である。そのヴィジョンは、思想家で劇作家のフリードリッヒ・フォン・シラーに由来しており、「必然の王国」(現実原則)と「自由の王国」(快感原則)が矛盾しなくなり、義務と自由の境界もなくなり、高次の止揚を迎える段階が訪れるとシラーは夢想していた。合理的な抑圧はあるものの、それは昇華されていき、様々な退行的であったり幼児的な願望も満たされるが破壊的ではなく、「エロスの充足は上昇をつづけ、美しい仕事と遊びの愛を経て、そうして、最後に美しい知恵の愛に到達する」(p191)、そして性器的な性愛への限定から解放され、「精神的な『生殖』」も伴うエロス的な文明になることをマルクーゼは求めた。
「エロスの文化をつくる力は、被抑圧的な昇華である」とマルクーゼは言う。「昇華」とは、抑え込んだ欲望を、社会的に有用であったり容認されるものに形を変えることである。たとえば、ひどく想い合っているのに、事情により一緒になれなかった恋人たちが、詩を作ったり、芸術に打ち込むなどは、その分かりやすい例である。昇華は抑圧を伴うが、その抑圧が希死念慮や攻撃性や支配につながらないような「被抑圧的な昇華」により、文明がおそらくは精神的な愛や美や知をも慈しみ合うような段階に発展することをマルクーゼは期待し、夢見ていた(それが具体的にどういうものか、マルクーゼのロジックを筆者ははっきりとは理解できない)。
そのようなヴィジョンを信じた新左翼運動の、現実的な帰結については、必ずしも理想的なものではなかった。だが、ある部分においては、先進国はマルクーゼの示した方向に向かって「進歩」した。筆者の理解では、新左翼運動とは、いわゆるゴリゴリの政治運動というよりは、このように感性や欲望、ライフスタイルを革命することに重点が置かれており、その達成の上に現代の文化や価値観がある。
実際の現実では、元新左翼のコピーライターである糸井重里が「おいしい生活」と表現したような、エロス的(センシュアル)な文化が、高度消費社会の訪れによって広がっていった。オタク文化なども、現実原則から離脱する傾向がある文化であろう。性的な欲望、多型倒錯も社会的に肯定される方向に進んでいる。VTuberやeスポーツなどでは、(憧れる若者の夢想や幻想の中であれ)「遊び=労働」が実現しているように見える。物理的な意味での最低限の生存を維持するための労働の領域は減っている。
しかしにもかかわらず、労働は過酷であり、競争は熾烈である(と感じる)。管理は厳しくなり、些末なルールは増大していき、「現実原則」的なものはむしろ強くなっているように感じられる。マルクーゼの診断した、文明の進歩にまつわる逆説が、現代にも再来しているようにも感じられるのだ。
フェミニストへの攻撃の背景——「現実原則」をより多く内面化せざるを得ない人々
私見では、現代の様々な対立の中心的な軸の背景に隠れているのは、このような「エロス的文明」≒快感原則中心の段階で生きていけるようになった人々と、現実原則≒生きるための労苦に直面している人々の認識の差ではないかと思われる。エロスを、性器的に満足させるしかないか、文化や芸術や精神的なものなどで満足させられるように「昇華」を経ているのかの差も大きい。
これらマルクーゼの分析装置を、現代の様々な事象に向けてみると、少しばかり違う見え方がしてくる。
エロス的文明に近づいた、つまり、豊かで平和な暮らしが出来るようになれば、現実原則、すなわち、「そうしなければ生きていけない」という不安や罪悪感が相対的に減っていき、美や快楽を享受して生きていくことができるようになる。しかし、貧しく過酷な状況に生きている人々は、未だ現実原則に強く縛られることになり、彼らがエロス的文明に生きる人を見ると、羨望と、自分がそうであれば不安と罪悪感が湧くということを想像し、恐怖や攻撃性が湧いてきてしまう傾向が出るのである。「リベラル・エリート」や「学者」や、「フェミニスト」たちへの保守反動的な攻撃の背景には、このような心理の差が存在している(実際に、女性やフェミニストがそのような「楽をしている」わけではなく、生きるための様々な労働や性愛・セックスワークなどで精神的な傷を負うパターンなどもあるので、ある部分は偏見の投影なのだと思われるが)。
それは、現実原則に縛られる率と相関することで、後者が労働者階級や地方の者と結び付いて現れやすく、ジェンダーの差とも部分的に重なるのだろうが、本質的には、エロス的文明を生きることができる条件にあるか、現実原則の内面化からどれだけ自由になり、不安や罪悪感から解放されうるのかの差だと理解されるべきだろう。X(ツイッター)でフェミニストが「女だけの町」と言ったときに必ず「インフラ」の観点からの反論があるのは、要するに「現実原則」を無視しエロス的な原理で意見を言うことへの反発と理解することができる。
格差は拡大する一方である。社会は豊かになっていくが、現実と接触して労苦のある労働をしなくてはいけない人々がいなくなるわけではない。彼らの境遇の改善を怠りながら、アイデンティティや文化的な闘争という、「現実原則」ではない次元を中心に左派やリベラルが動員のために政治的なアジェンダを設定したことが、「見捨てられた」と感じる人々を生みだしてしまった。初期のマルクス主義であれば、まさに改善と救済の対象としたであろう人たちの生活環境や現実感覚を無視してしまったのである。
誰もが快感原則ばかりで生きていきたいが、生きるために仕方なくそれを断念し、労働をする。時にはそれを、人のために引き受けることもある。かつては「男」がそれを引き受けることが多かった。その労苦は見返りに尊敬を齎した。戦場で死と暴力に直面し、それを内面化させられるのは、もっぱら男性であった。
今でもそのような労働は絶えることがないのだが、多くのものは快感原則的に生きたいと願うため、地方から都会への人材流出は止まらない。だから、技能実習生などの実質的な移民に、まだ「エロス的文明」にまで至っていないような貧しい国から来てもらい、労働してもらうことが行われる。そして、彼らにそのような困苦を押し付け、自分はそうではない暮らしを享受する罪悪感を正当化する装置として、ナショナリズムが用いられる。だから、彼らと近い場所にいて、自身が様々な理由で捨て置かれたり不平等な扱いを受けていることを社会に正当化されていると感じる境遇の者ほど、人種や国籍による差別を心理的に必要としてしまうのだろう。
現代に起こっているのは、このような「現実原則」を強く内面化し生きることを強いられ、階級や能力主義や自己責任などの概念で正当化されてきた人々の叛乱であろう。多くの場合陰謀論などとも混ざりがちだが、エプスタイン問題への広範な怒りを見ていると、性的な快楽を楽しみ生きる、労働の困苦なき特権階級が、弱い者たちの生命や苦しみを利用していることへの怒りが潜在的に存在しているように見える。おそらくこれは、トランプを支持させて当選させたのと同じ、潜在的に階級的な動機なのだろうと思われる。性などに対する強い規範と抑圧を民衆が多く内面化させられている時代だからこそ、この怒りはより大きくなっている(そのような抑圧があるにもかかわらず、金と権力を持つ者たちが性売買などで有利に振舞える状況はより拡大している。その歪みに対する誤った反応が、「フェミニズム」や「リベラル」というラベルに向けられ、怒りの形を取り現れているのである)。
もう一つ、重要な対立軸が、世代差であろう。バブル世代は、このようなエロス的文明のユートピアに向かっていくと信じられ、相対的に現実原則から自由であったが、現代の若い世代にはそのようなリアリティはもはや乏しい。経済的な衰退とサバイブ思想、気候変動、資源の枯渇、戦争の機運などにより、人は死と欠乏を究極の根拠とする現実原則の脅迫を感じ、不安と罪悪感を覚え、エロス的な文明を享受するような楽観性と解放感を持つことは難しくなる。そのような切迫感を覚える者が多くなっていく環境であるので、バブル世代的な進歩の感覚のまま、エロス的文明の方向性で語っている知識人たちの言葉は、現実を見ていない、貴族的な遊びであるように見えてしまうのである(様々な戦争の気配、死の恐怖を広げることは、現実原則による心的抑圧を世界中で高める効果もある。それ自体が、一つの階級的報復心を満足させる行為でもある)。たとえばアイデンティティや、親密さの満足、セクシャリティの多様化などのエロス的文明段階の要求に近いものは、生存のためのギリギリの線で生きている人にとっては、豊かさと平和が下支えされている上での贅沢で高級な悩みに過ぎないように感じられてしまう。しかし、その「豊かさと平和」を維持するための仕事は、現実と直面することなしには困難であるのに、彼らは蔑視され不可視化されがちな傾向が社会の中にあり、そういう価値観や文化への異議申し立てでもあろう。ここには容易に解決することが困難な、人間社会の深刻な問題があるのであり、そのことを見て見ぬふりをし続けてきた言説空間の問題は確かにあるのではないだろうか。
「現実」により多く直面しその脅迫から逃れられない者たちの、現実原則によって抑え込まれた快感原則、言ってしまえば幼児的な退行願望や万能感や有能感などが、「論理」「合理性」を超えて回帰してくる。それが、ポストトゥルース現象が、論理や理性や事実による説得を有効とせず、陰謀論的な言説が蔓延してしまう理由なのではないだろうか。それは、錯乱した形で表現されている、階級的な叫びであり、世代間闘争であり、綺麗な形で言語化する能力がない者たち——整然とした言説空間に参与する能力を持つ機会を与えられなかったサバルタンのような人々——の、不正義への告発であり、同時に、幼児的な誇大妄想(自分は真理を知っている天才である、見抜ける、神と通じていている)でもある、そういう ものとして解釈することが可能なのではないだろうか。
現実原則が強化され続ける時代への処方箋
では、どうすればこれが解決できるのだろうか。穏当な答えの一つは、マルクーゼの言うように、再分配と、労働時間の低下である。エロス的文明を享楽できる段階を、平等に公平に配分していく努力をしなければいけない。そして自己目的化した不要な現実原則や抑圧は、攻撃性や自死の欲望を高めるものであるから、解除していく必要がある。
しかし、現実原則の究極の根拠は、自然環境であり、他者であり、生存の必要性である。本当にどこまで現実原則をなくせるのか、不安や脅威の感覚がどこまで妥当なのかを客観的に判断するのはとても困難である。戦争や気候変動やAIなどによる危機は杞憂ではなく、確かに実在するのである。だから、現実原則をなくすというエロス的文明一元論は、遠い未来には実現可能かもしれないが、今すぐか近い未来に実現しうるものとしては否定されなくてはならないだろう。
現実原則と直面する仕事の再評価も必要であろう。その根源にある死と欠乏の可能性は、人類にとって待ったなしのリアルな危機なのであり、それへの対処を怠ってきたのは事実なのであるから、環境危機、資源不足、自然災害、戦争などの問題を具体的に解決する仕事を評価し、尊敬するようにし、否認を解除しなければならない。それはエロス的文明、快感原則にとっての異物であり、思考・認識したくないものであるが、否認せず、直視しなくてはならない。そして、具体的な解決に向けて推進していくことで、その脅威を実際に解消する方向に向かって「進歩」していくことが必要なことである。
不必要な支配、自己目的化した支配は減らしていくべきであろう。新自由主義の労働、産業転換、気候変動、戦争などで、「現実原則」はむしろ溢れすぎているのだ。無意味な抑圧は減らし、快感原則を解放したり、遊びの領域を拡大していかないと、心が持たないし、持たなくなった心は攻撃や支配などで自尊心を回復させようと動いてしまう。抑鬱と希死念慮から、他者への攻撃衝動へとつながってしまうような心的回路を改善するために、労働と他者との共存に必要な最低限の抑圧は受け入れるが、不必要なルールや管理、規範などは減らしていった方がいい。
サム・アルトマンは、AIにより労働が自由化され余暇が増えるという、マルクーゼ的なユートピアのビジョンを語っている。ネットカルチャーの欲望も、労働=遊びであり(eスポーツやYouTuberへの憧れ)、様々な幼児的でもある快感原則を解放させる方向に向かっているように見える。一方で、現実そのものは過酷であり、そこからくる現実原則=超自我に自我は苛まれている。それが救われ、安心されることを求めているから、推しや親密さへの希求が男女ともに高まり、高市首相のような「強そうなお母さん的存在」への支持に繋がるのではないか。だとすれば、リベラルや左派も、別の形で「安心」を語り、超自我(それはSNSなどで無数の方向から内面化を強いられている)を和らげ、抑鬱や無力感から救い、未来への希望のヴィジョンを提示する必要があるのではないか。サム・アルトマンやイーロン・マスクの語る未来像も、共感する人間を獲得するイデオロギーのヘゲモニー闘争である。彼らのやり方からも学ぶべきことは多い。
その前提の上で、マルクーゼ的な「生の本能」と「死の本能」の弁証法としての文明のあり方に話を戻せば、我々に必要なのは、現実原則と快感原則の、高次の融合であろう。マルクーゼが参照したシラーが、「義務の王国」と「必然の王国」が、美や芸術、遊びの中で区別がなくなり、止揚された次元に移行することを期待したように(それは、貴族階級と労働者階級の融和の寓意でもあった)。エロス的文明の理想の魅力と希望と解放を万人に行き渡らせることで、暴力や支配に繋がる抑圧を減らし、あらゆる生命や存在の肯定と愛へと至るような「自己昇華」に導きながら、同時に、現実の悲惨や苦しみ、死や残酷さにも直面し、資源不足、気候変動や戦争という「現実」そのものに直面し続けその解決を実行するようであることが、私たちに必要な文明である。過酷な状況を見つめ、現実原則や実行原則に全面的に浸ることで支配的で暴力的で酷薄になっていくような内面の自己抑圧を解放していき、同時に、快感原則により幼児的な現実否認や階級的な特権にあぐらをかき弱き者たちの苦しみを正当化し不可視化しないようなあり方こそが必要なのだ。
新自由主義の経済や権力を振り回す「乱行」は、より弱い者に対する支配と抑圧と暴力になり、彼の内面に死の衝動、破壊衝動を生み出し、再生産したり、憎悪を外に向けたり、世界の終わりを望むようになってしまう。そのような独善的でささやかな快楽のために他者を犠牲にし正当化し、矮小な自我と自尊心にまやかしの高揚を得ようとする惨めな行為こそが、ファシズムや差別や暴力、戦争への祈願を回りまわって生み出しているのであると、自覚しなくてはならない。エプスタイン事件への人々の怒りは、この問題のまさに象徴であり、未成年の女性に対する性的搾取こそが怒りの原動力になっているのは、そのように解釈しなくてはいけないのではないか。政治とは、論理や合理性のみで動いているのではなく、世界史もまた感情や欲動に動かされているのではないか。「性」を重要なファクターとして分析していたフランクフルト学派の知見を参照する価値があると思うのは、そのためである。
