「犠牲者意識ナショナリズム」と陰謀論

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 昨今、デマや陰謀論について、ファクトチェックやSNSの構造などによるアプローチの議論を多く目にする。筆者の書いてきた原稿では、もう少し深い中長期的な社会の体質改善のようなアプローチの方向から、議論を進めてきた。

 今回、「歴史戦」「記憶政治」と、現代の陰謀論やデマの状況の構造的な類似について考えてみようと思う。というのも、歴史や記憶に関する問題におけるデマや陰謀論は、SNS以降に生まれたものではなく、1980年代には活発に飛び交い、第二次世界大戦以前からも存在し続けていた(ライヒの『ファシズムの大衆心理』でその一例を確認した)。

 これらは、大文字の政治や、アイデンティティに関わるので、単に事実や論理による意見では修正しにくい部分がある。ポストトゥルースと呼ばれる現在における認知戦や陰謀論も、そのようなアイデンティティに関係する話法を応用しているように見える。そのことを、林志弦『犠牲者意識ナショナリズム 国境を超える「記憶」の戦争』を参照しながら考えてみることにしたい。

目次

「犠牲者意識」による政治

 林は、日本と韓国のみならず、ポーランド、ドイツ、イスラエルなどの事例を参照しながら、「犠牲者意識ナショナリズム」と彼が名付けたものが、如何に事実や現実を否認させていくのかのメカニズムを記す。

 分かりやすいのは、アウシュビッツの「犠牲者」であると自身を位置づけたイスラエルである。一度自分たちを「犠牲者」「被害者」だと見做してしまうと、自身の行っているパレスチナなどへの虐殺や人種差別など、かつての自分たちがやられたことと同型のことをしていても、それが悪いことだとは感じず正当と思ってしまい倫理的な麻痺をする現象があると言う。それはガザを見ている多くの者が感じていることだろう。「イスラエルの記憶政治で犠牲者意識ナショナリズムが発展しながら、ホロコーストの記憶は犠牲者の武器から加害者の武器に姿を変えた」(p235)

 原爆や東京大空襲、特攻隊などの悲劇を語りたがる傾向のある日本にも、同様の問題はあると林は言う。それは、日本を「犠牲者」の立場に起き、アジア諸国での植民地支配や加害を忘却させる機能を持っている。自分たちは完全に「被害者」「犠牲者」などであると見做してしまうと、それにあてはまらない事実や現実が見えにくくなってしまう(一方、加藤典洋の言うように、戦後日本の文化は、この加害と被害のねじれを含みこんで進んだ)。

 同じことは、韓国にも言える。満州から引き揚げてきた日本人の少女をレイプした韓国人男性の「罪」を、集団としての韓国人が、集団としての日本人に対して「被害者」であるからと言って否認しようとする議論が韓国で起こった。それを林は批判する。さらに、植民地支配されているときの大日本帝国軍の一員として韓国人が行ったアジアでの非人道的行為の全てが免責されるわけでもないとも彼は主張する。「犠牲者民族の持つ集合的無罪という観念を自己弁護に使い、加害者が犠牲者になりすます記憶の倒錯は危険なトリックである。植民地支配を受けた民族だから、犠牲者民族の一員だからという理由で、人権を踏みにじった個人の犯罪行為に免罪符を与えうるというのなら、その思考方式は、個人の考えや行動ではなく民族によって罪の有無を決めるという点で反ユダヤ主義と変わらない。個別の行為に対する判断ではなく、ユダヤ人だから有罪だという発想の行き着く先がホロコーストだった」(p218)

 あるアイデンティティ集団と一体化し、それを一枚岩的に考え、そこに属している自分まで「集合的無罪」にしたり、栄光を得た高い存在であると自己愛的に思い込みたいという欲望は、広範に存在している。その場合、その集団の罪など、自己愛や自尊心の傷になるものは無視されがちである。そして、加害や暴力も、正当化されがちである。その帰結を、我々は、ガザで見ている。

歴史戦とアイデンティティ政治

 昨今の陰謀論やネット上の組織化では、この「犠牲者意識ナショナリズム」と同型のアイデンティティ政治のレトリックが多く使われているように見える。筆者は、マイノリティの受けてきた迫害や差別や苦痛は癒され是正されるべきであり、正義はとても重要であると強く感じている人間であり、共感と怒りと悲嘆の感覚も強く持つ。とは言うものの、かつて自分が属する集団が迫害や被害を受けたからと言って、今の自分のあらゆる振る舞いを正当化する暴力を振るい、報復の連鎖を生み出している今の状況が正しいとも思えない。たとえば黒人であったり、ジェンダーであったりで、そのような「正当化」の話法はネットで多く見られた。

 そのような「犠牲者意識」のアイデンティティ政治の手法は、今やマジョリティに利用されるようになっている。「絶滅」させられるという危機感ゆえにパレスチナやアラブ人へのジェノサイドを思わせる人種差別的行いを正当化してきたイスラエルと同じように、男性や白人たちもまた、自分たちが「犠牲者」であり、「絶滅」させられかけているので暴力的な手段を用いてでも「自衛」する正当性があるというナラティヴが広まっているのだ。男性でも白人でもオタクでも女性でも良いが、「自衛」のために相手を排除したり差別したり、時には暴力すら必要であるという主張が、日本のネットで見られるようになってきている。

 繰り返すが、「自分たち」を被害者であり犠牲者と一枚岩的に決定し、「聖化」しすぎてしまうことは、その弊害として、「自分たち」の加害性が見えなくなり、「相手」集団を一枚岩化し良い部分などは見えなくなるという問題が発生する。その被害が真実でどれほど痛ましくても、これが生じかねないということに、苦しさがある。トラウマや脅威の感覚に駆動させられると、おそらくは交感神経が過剰に優位になり「逃走・闘争」反応を引き起こす結果、アイデンティティ集団が本質化し、「友敵」の認識になってしまいやすいのだ。

 本当は、どのような集団も、多様で複雑であり、加害と被害が入り混じった多層的なものである。そして、ある集団と過剰に自分が一体化し、劇的な演出などに作られたイメージに高揚してしまうと、複雑な「現実」「事実」が見えにくくなってしまう。たとえば、ステレオタイプに反するような、性暴力の被害を受ける男性や、米軍やCIAの一員として拷問に従事し性的虐待を加える女性などの存在が、社会的に不可視化されやすいことを考えれば、よく分かるだろう。集団として有罪であったり被害者であるような「集合的無罪」「集合的有罪」は、具体的に生きている個人とは矛盾したり相克するというのが、現実に生きている具体的な人間の姿であり、事実であるのに、それを不可視化し踏みつぶしてしまうのである。

 ネット上で起こっている争いは、このような「犠牲者意識」的なアイデンティティ政治であり、誰が犠牲者なのかの「認識」を奪い合う認知戦のようになっている。その認知戦は、これまでの、イスラエルやポーランドや日本や韓国の場合がそうであるように、必ずしも事実に基づいたものではないし、説得が功を奏するわけではない。自分の祖父が、国や家族のために命を捧げた尊い人物だったのか、戦地で略奪や強姦や殺戮を繰り返した人物だったのか、どちらと思いたいのかは、単純に事実の問題ではなく、自己肯定感や罪悪感の領域の問題であり、トラウマなどと結びついた情動の問題であることは容易に想像が付くだろう。

 そこでは、頻繁に「否定論」が現れる。もちろん、否定論者たちが言うように、数字を過大にしたり、何かを恣意的にピックアップし何かを隠蔽する「歴史戦」「記憶政治」は冷戦構造の中で様々に起こってきたし、プロパガンダもたくさん混じっていることもまた確かだ。捏造や虚偽だって当然ある。同情や共感、悲嘆や共苦をも利用し動員し政治的に利用するこの冷戦下・新冷戦の現状に非常に深い嘆きの気持ちを筆者は覚える。しかし、全否定か全肯定かのような議論になってしまうこと自体が、アイデンティティ集団に対する友か敵かという思考の枠組に囚われた誤った議論ではないかと思う。現実は、もう少し複雑で多元的であろう。

「疑念の否定論は、歴史的事実の問題を道徳的な感情と行動の問題に変えてしまう。(中略)信じる人と否定する人を感情的に対立させようという目的のためには充分だ。検証して疑念が間違っていたとなっても問題ない。どうせその頃には、激した感情が記憶空間と言説秩序を支配するに至っているからだ」、そして、訴訟や批判を受けても「むしろ言論と表現の自由を抑圧される被害者だとアピールして同調者を集められる」(p284)。これは、現在のネットで頻繁に見る構図である。歴史戦や記憶政治に使われていたナラティヴや論理が援用されているのか、自然に広まったのかは分からないが、同型の「構造」が存在しているように筆者には見える。

内集団・外集団バイアスの作動――終わりなき報復

 様々なアイデンティティ集団――国であれ民族であれ男女であれ貧富やエリート・非エリートであれ居住地であれ――が、ネットでは「犠牲者」「集合的無罪」などの地位と道徳的卓越の地位を奪い合い、それを利用しようとしているように見える。

 自分がその一員となるだけで「集合的無罪」や道徳的卓越を感じたり、他の集団を「集合的有罪」にすることは、自身の加害を否認し、被害に遭った個人を踏みつぶし、不可視化して、なかったことにするという問題を発生させてきた。

 たとえば、歴史的に女性は差別されてきた歴史があるが、それは現在の女性の行うことや加害などを正当化しうるものではないのに、ネットにおけるポピュリズム的なフェミニズムにおいては、そのようなロジックや行動が随分と目立つ。それは、植民地主義の被害者としての韓国の人々が、日本人は「集合的有罪」だと考えるあまり、日本人の被害を受容できなくなったことと構造とロジックは同型である。同じように、そのような(一部の)「フェミニスト」の他責性や「男性差別」「オタク差別」を批判し「犠牲者意識ナショナリズム」の感覚を持つ者たちが、自衛の口実でフェミニストや女性を攻撃し、嫌がらせをするのを正当化しているのも頻繁に見る。「犠牲者」「被害者」であるという意識によって、相手を敵と見做すと、具体的に存在する傷つきや苦しみに不感症になり、攻撃や嫌がらせを正当化しやすくなってしまうのだ。それはおそらく、あらゆるアイデンティティ集団で起こりやすいことなのだろうと思う。

 「集合的無罪」は暴力や加害を正当化し否認させやすい。そして「集合的有罪」は、その中に存在しているミクロな個人の被害や苦しみを不可視化させやすい。当然、その不可視化に、個人は反発する。存在していないことにされたり、被害や苦痛を「否定」「否認」されることは、それ自体が暴力であり、不正義に感じられるのは、当然のことだろう。このような集合的アイデンティティと個人の間における、集合論的な差異と誤解により、ネット上の傷つきとその復讐は延々と続き、終わることなく、プラットフォーマーやアクセス稼ぎをしようとする者たちの利益に奉仕し続ける。これがネット上の不必要な対立と分断を激化させる原因のように思う。

 そうなってしまう原因は、進化の過程で群れの中で生きてきた人類の脳に存在するバイアスであろう。内集団バイアスと外集団バイアスというものがあり、自分たちの集団の個性や多様性は良く見えるのに、そうでない集団は平板に見がちなのが人間の脳の仕組みである。だから、皆が「自分たちだけが被害者だ」と思い込みやすい構造が、認知バイアスから来る必然として存在している。しかし、我々は文明を持つ高度に知的な生物なのだから、それを意識的自覚的にキャンセルすることが可能なはずだ。

「枠組」の設定の争い――認知戦

 SNSで隆盛を極めている第四次フェミニズムに大きな影響を与えたと言われるジュディス・バトラーは、『戦争の枠組 生はいつ嘆きうるものであるのか』の中で、戦争の死者たちを念頭に、嘆かれる死と嘆かれない死があり、何が嘆かれる死なのかは枠組(フレーム)が決定すると述べた。その「枠組」に入らない死や犠牲は不可視化され隠蔽されやすい。たとえば、科学や戦闘に強い女性や、「弱者男性」や性被害に遭う男性などは、「女らしさ」「男らしさ」の枠組に合わないことによって不可視化されがちであった。

 昨今の陰謀論やデマなどに基づくアイデンティティ政治の本質は、「枠組」をどう設定するかの争いであるように見える。それは、アテンションエコノミーや、「共感資源」などと呼ばれてもいる。女性を被害者とする枠組、男性を被害者とする枠組など、どのように見えるかは、フレームの切り取り方と設定次第である。統計的事実などのどこをピックアップするかによって、男性優位の家父長制社会であるようにも、「女性優位」の「男性差別」社会であるようにも見せることができる。その「枠組」の設定自体が認知戦の対象なのである。戦時下ではナショナリズムが「枠組」となりやすいし、「日本人ファースト」などの概念もその設定であると見做せる。

 これを解決するためには、「どのフレームにするのか」を争っているだけではおそらく足りない。『ジェンダー・トラブル』でバトラーはジェンダーの輪郭や境界が曖昧で流動的であるのだと示していたが、同じように国家や民族の場合も境界は本当は曖昧なのである。我々は、あらゆるアイデンティティ集団の輪郭それ自体が、言語や制度的な構築物という側面を持ち、実際の現実はもっと多様で複雑で複層的であるのだという、当たり前の客観的な現実を徹底的に直視する必要がある。

 具体的な例を出そう。ラウ・ケクフアット監督のドキュメンタリー『島から島へ』に出てくる例で言えば、日本の植民地であった台湾の人間が大日本帝国の軍人としてマレーシアで行った虐殺行為がある。果たして彼は被害者か加害者か。植民地支配においては被害者だが、マレーシアの住人にとっては加害者であろう(記憶が定かではないが、このような兵士の中には、日本軍がそのような虐殺を行ったことは嘘であると主張する者もいた)。現実に生きている人間とは、このように加害者とも被害者とも決められないし、単純な国家の輪郭で切り分けることの出来ないものである。このような、個別の具体的な個人の生きた複雑な状況の総体として集団を想像するように、私たちは努力せねばならないだろう。

現実や他者の「認知的不協和」に耐えること

 アイデンティティに関わる物事において、事実や客観的現実の実態にそぐわない「物語」を自己愛的に信じ込み共有する現象を、人類は起こしがちである。そのことのポジティヴな機能はもちろんある。前向きに明るくさせてくれるしポジティヴになり使命感を担った誇りなどを抱かせてくれることもあるだろう。それを全否定しようとは思わない。

 しかし、一方で、ナチス・ドイツや、ルワンダの虐殺などを考えれば分かる通り、「素晴らしい我々」というナルシスティックな意識が病的に肥大化し、「あいつらは悪である」という決めつけが行き過ぎた場合、大量虐殺が起こってきたのが人類の歴史である。ルワンダ虐殺が起こったのは1994年であり、まだ30年ぐらいしか経っていない。

 アメリカやヨーロッパの例を見ていると、これが殺戮にまでエスカレートする事態は、21世紀の先進国でも起こりうると考えざるを得ない。そのリスクを下げる、つまり、安全保障のためには、アイデンティティの輪郭を本質化せず――とはいえ、もちろん必要な区切りもある――、具体的な人間の生の多様さや複雑さや複層性をしっかりと見つめて理解できるようにしていくべきだろう。

 ただひとつのフレームを絶対視するのではなく、そのフレームの外側の存在を認識するべきである。そして、自分の「思い込み」「世界はこうであるという考え」に反し、認知的不協和を起こすような具体的な現実や人間を、ノイズとして脳から排除しようとせず、そのストレスに耐え、より高次の正確な認識に辿り着くべく努力をするべきだろう。目の前にある現実、人間、数字の矛盾から目を逸らさず、自身の認識を柔軟に更新し、整合性のある正確な認識に変えていく不断の努力が必要なのだ。

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この記事を書いた人

藤田 直哉のアバター 藤田 直哉 リサーチフェロー

1983年、札幌生まれ。批評家。博士(学術)。日本映画大学准教授。著書に『現代ネット政治=文化論』『攻殻機動隊論』『虚構内存在 筒井康隆と〈新しい《生》の次元〉』『シン・ゴジラ論』『新海誠論』(作品社)『新世紀ゾンビ論』(筑摩書房)『娯楽としての炎上』(南雲堂)『シン・エヴァンゲリオン論』(河出書房新社)『ゲームが教える世界の論点』(集英社新書)、編著に『3・11の未来』(作品社)『地域アート』(堀之内出版)『東日本大震災後文学論』(南雲堂)など。1995年からインターネットに触れ、「ネット万華鏡」(共同通信)「ネット方面見聞録」(朝日新聞)などネット時評も担当。https://x.com/naoya_fujita

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