陰謀論と後期近代
前回は「愛着スタイル」と陰謀論の信じやすさに対する実証的な研究データを元に、愛着や親密性の観点が、現在のデマやフェイクや陰謀論によって分断と対立を激化させる文化戦争の時代における安全保障において必要なのではないか、という提案を行った。
ジョゼフ・E・ユージンスキは、「無力感、社会的疎外感、自信のなさ、不安感、コントロールができないという気持ちは、陰謀信念と相関関係がある。疎外されている、他者にコントロールされている、無力である、将来が不安だという感覚を持つ人たちは、自分の置かれている立場を理解するために、あるいはうまく対処するためのメカニズムとして、陰謀論に傾倒する可能性が高い」(『陰謀論入門』p108)と述べているが、今回は、これが一部の敗北した特殊な「負け組」のみではなく、現代を生きる人間が広範に巻き込まれている事態である、ということを、ギデンズの社会学の知見などを参照に述べていこうと思う。
「後期近代」と「存在論的不安」
アンソニー・ギデンズは、イギリスのブレア政権のブレインであり、「近代」について考えてきた社会学者である。彼の考えでは、近代とは「再帰性(反省)」に特徴づけられる。前近代であれば、神がそう決めた、常識である、伝統であるなどの理由で、思考停止的に意志決定や人生を決定することができた。しかし、近代以降は、人間が自分の意志で自由に決めていくことができる。だから、その意志決定や判断の根拠などを常に意識し考える必要があるし、それがうまくいっているのか、正しいのか、常に自分自身でモニタリングして修正していくことを迫られる。そのような自己参照的な状態になっていくのが、近代である。日本で言えば、夏目漱石がそれのせいで神経症になり、太宰治が自己をぐちゃぐちゃにさせていったことが、分かりやすい例である。
ギデンズは、現代はその「再帰性」が徹底した「後期近代」だと診断する。具体例として分かりやすいのは、結婚である。家や親が決めていた時代、お見合いなどで決まっていた時代の後に、自由恋愛で結婚するのが一般的となるロマンチック・ラブ・イデオロギーの時代が訪れた。自由になるが、その分、誰を何の根拠で選ぶのか、結婚とは何のためにするのかなど決断のために考えなければいけないものの量が増える。ロマンチック・ラブの場合は、まだ、恋に落ちて頭が陶酔しているときに「運命だ」などと錯覚して勢いで結婚する現象が多かったが、昨今では、スペックなど条件を最初から吟味し、その結婚が後の人生にどう影響するのかを計算し結婚する向きが増えているだろう。自分はそれに相応しいのかを考えるだろうし、その決断や選択の根拠が外部から提供されないので、その結果への後悔や、「他の可能性があったのではないか」という疑いも止まらない。結婚とは何か、相手に何を望むのかなどを考えるということは、自分自身の心のあり方、愛のあり方、人生についての考えを自分自身で自問自答することを意味する。これが、「再帰性(反省)」が増すということである。職業選択などの場合でも同様である。
この「後期近代」の時代は、懐疑が増大し、「実存的不安」が増すとギデンズは言う。何が正しいのかを決定する、神や伝統のような超越的な審級が存在しなく、個々人の選択に責任が集中するからである。「正しい」という確信が持てないのだ。「個人は、伝統的な舞台において与えられていた心理的支えや安心感を欠いた世界において、切り離され孤独であると感じる」(『モダニティと自己アイデンティティ』p61)。この「存在論的不安」が増す状況の中で、世界の意味を説明する陰謀論や、何が正しいのかを一方的に決めつけてくれる宗教やカリスマへの心理的ニーズが高まることは言うまでもない。そして、ギデンズが言うには、主体は「存在論的安心」を得るために、親密性や愛着の対象を求めるようになる。
「存在論的安心」の感覚は、前回扱った「愛着スタイル」と深く結びついている。ギデンズは、こう言う。「情緒的またいくらかは認知的な意味での現実の実存的基礎への信頼は、幼児の早期の経験によって獲得される、他者の信頼性についての確信にかかっている」「早期の養育者からの愛情に満ちた関心を通して基本的信頼は発達し、それは自己アイデンティティを、他者との評価と決定的に結びつけることになる」(p68)「すべての人間が生きることそのものが含んでいるリスクへの不安によって圧倒されるかもしれないということである。『大丈夫』という感覚は、基本的信頼からもたらされる。その感覚は一般的な希望的態度を促し、否定的な可能性を遮断する。保護皮膜は本質的に、安心だという揺るぎない信念ではなく『非現実』の感覚である」(p71)「不在の人や対象の特徴を学ぶこと――現実の世界を現実として受け入れること――は、基本的信頼が与える情緒的安心に依存する。幼い頃に十分に基本的信頼が発達しなかった人の生活につきまとうかもしれない非現実感には様々な形態がある。たとえば、対象‐世界や他者が影のような存在に感じられることもある」(p76)
生きている世界、社会、産業構造、ライフスタイル、価値観が次々と移り変わり、グローバルな危機と生活世界が直結している現在では、「存在論的安心」を獲得するのは容易ではない。たとえGAFAのCEOの大富豪であったとしても、数十年で産業の勃興と衰退が繰り返される世界では、「存在論的安心」など得られはしない。気候変動や第三次世界大戦の危機は言うまでもない。このように、後期近代である現在は、「存在論的安心」が確保しにくく、誰もが「存在論的不安」に晒されやすく、従って、陰謀論への心理的ニーズが発生しやすい時代なのだ。
「伝統」への回帰願望
そこで、存在論的不安に駆られた心が求めてしまうもののひとつが、「伝統」である。かつては、伝統的な場(たとえば、我々が「ふるさと」とか、「古き良き日本」として思い浮かべやすいもの)が、「存在論的安心」を提供していたが、後期近代はそうではなくなると、ギデンズは言う。「場所は走馬灯のように移ろいやすいものになる。人々が生活する環境は地域的愛着の源でありつづけることも多いが、場所は経験のパラメータを形成せず、伝統的な場の特徴である、いつも親しみをもてるものという安心感を与えることもない」(p245)。「場所と血縁という外部は、一般に密接に関連していた」「前近代的環境においては多くの人の生活にとって中心的であった『祖先』という概念は希薄で、回復するのが困難になっている」(p247)。「伝統は、典型的には認知的要素と道徳的要素を混合する、事物の確かさの感覚を創り出す」(p84)
だから、「存在論的不安」の感覚から逃れたい主体は、かつて存在していた場や祖先などについての伝統に固執しようとする傾向が出る。世界で起こっている、グローバリゼーションとローカリティの対立のある側面は、このような心理的メカニズムに拠るのではないかと解釈することもできる。
だが、昔に戻ることはできない。なぜなら、産業も、科学も、認識も、テクノロジーも、不可逆的に変化してしまっているからだ。宗教右派が言うような、神道や家制度も、農業や封建時代の藩などに結びついた文化であり価値観なのだから、その前提が失われていくならば、そのまま元に戻ることは残念ながらできないのだ。「変動する近代的・社会的条件の要請に対処するために、伝統の再構成に夢中になる傾向が増えている」とギデンズは言う。
それは、単なる反動ではなく、可能性もあるかもしれない。「近代的進歩主義が見せる『つねに修正可能』な態度とは対照的な、日々の生活における道徳的な固定性への回帰は、ある程度無視できない現象である。それはモダニティの『ロマンティックな拒否』への後退をなすのではなく、内的準拠システムに支配された世界を越える動きの始まりを画するものである」(p343)
近代の、あらゆるものが意味や価値や愛着から切り離された無機質なものとなっていく流れに対する心理的な抵抗として、「存在論的安心」を提供してくれるような、ローカルな価値に基づく場や空間や地域の概念を対抗させる。それを、単にグローバリゼーションや西洋に対する「反動」と決めつけてはいけないのだろう。「存在論的安心」を提供してくれる装置へのニーズが、「脱埋め込み化」されニュートラル化された近代的空間では提供できないということをこそ反省し、価値観を作り直すべきなのだろうと思われる。「日本を取り戻す」というキャッチコピーを掲げた安倍政権の人気も、そのような心理的ニーズの観点から理解するべきなのだろう。
誰もが存在論的不安からは逃れられなく、陰謀論を信じてしまう心のニーズに対して、我が事として考えるべきであり、存在論的安心の確保もまた公共的な問題として考える方向性が、おそらくは陰謀論による社会の破壊や工作に対する安全保障として有効なのではないかと思われるのだ。
インセルや弱者男性――後期近代のエアポケットに落ち込んだ者たち
2024年の8月、イギリスの内務省が、インセルの女性差別思想を「地域社会や民主主義を破壊する」(クーパー内相)「過激主義」として取り扱うと発表した。ネットや現実で吹き上がりテロや大量殺人を起こしている、陰謀論的なインセル思想の状況を考えれば、これは当然だろうとも思われる一方で、そのように力で抑えつけるアプローチだけには限界を感じるというのも正直なところである。
ギデンズは後期近代の議論を、『親密性の変容』などの著作にあるように、性愛・恋愛・結婚・家族などの大きな変動の分析を通じて行っているが、インセルや「弱者男性」たちは、まさにこの後期近代の問題性にまっさきに直面している人たちだと考えられる。
たとえば、ネットで流行している「弱者男性」論における「女をあてがえ」論というものがある。それは、恋愛や結婚ができない男性たちが、かつてのようにお見合いなどで結婚できるようにすることを要求する(女性の自由や人権を無視した)議論である。これは、後期近代の再帰性への疲弊から、伝統的な社会のあり方への回帰願望が発生した現象だと考えることができる。
根拠が外部から提供されず、超越的な審級もなく、自己の「選択」と「決断」にその責任が大きくのしかかる時代におけるマッチングアプリや婚活では、当然、判断が厳しくなってくるので、多くの男性が選ばれないことになる。女性からの要求も天井知らずになりがちである。かつてはそれほどまでではなかった高度で複雑なコミュニケーション能力や自己理解・内省も必要とされがちになり、適応できない者も増える。結果、選ばれなくなった男性たちは、現状を嘆き、結婚における自由意志や選択の乏しかった(そして同時に女性の意志を尊重せず人権侵害的であった)時代への回帰願望が出て来てしまうのである。バウマンは『退行の時代を生きる』で、過剰流動性の時代には「レトロトピア=近過去」が幻想化され理想化されると分析しているが、「女をあてがえ」の議論も、後期近代における自由からの逃走としてレトロトピア幻想が生じているものと解釈することができる。
「存在論的安心」のある社会へ
ベンジャミン・クリッツァーは、『モヤモヤする正義』の中で、「弱者男性」について、「経済力の欠如と親密性の欠如」という「二重苦」を味わっている存在だとしている。経済的な弱者性については、言うまでもなく多くの者が理解できるだろうが、「親密性の欠如」の苦しみはまだ公的な議論として大きくは通用していないように思われる。地縁、家族共同体、会社共同体などが解体し、「故郷」「伝統」なども有効力を失っている現在、多くの人々が「親密性の欠如」に悩みやすくなっている。『臨床心理学』142号(2024年)の「愛と親密性」特集では、ピアグループ、SNS、オンラインゲーム、VTuber、「推し」などにまで「親密性」の問題を拡張して検討する特集が組まれているが、おそらくはそれらへのニーズが増している背景には、「弱者男性」に限らない親密性の欠如という深刻な問題があるのではないかと思われる。
「親密な関係」とは、性的なものを含むときもあるが、含まないときもあり、男女だけでなく同性もあるし、友情関係であることもある。「親密な関係は性的な絆と混同されてはならない」(p163)とギデンズは言う。それは、「信頼」「他者に心を開くこと」のできる心理的な基盤になる場所である。しかし、難しいのは、適切な自己開示や自己統制も必要になり、維持と継続に努力が必要な関係性であることだ。関係性を支える共同体や掟や組織などの根拠なしに継続しなければならないので、不安定であり、互いに高度な反省と配慮が必要になる。要求されるコミュニケーション能力が、それなりに必要なのだ。それに難しさ・面倒さを感じる者は、アニメのキャラクターや推しなどの、相互性が乏しく、商業的であるがゆえに簡単には関係性が壊れないもので親密性への飢餓を増やすこともあるだろう。筆者の考えでは、後期近代の必然ゆえに、「親密な関係」を構築する難易度が上がりすぎていることが、(推し、ホスト問題なども含む)様々な問題の背景にあるように思われる。
グローバルな危機が恒常化し、次々と「創造的破壊」が繰り返される不安定で流動的な時代において「無力感、社会的疎外感、自信のなさ、不安感、コントロールができないという気持ち」に駆られる者が多いだろう。そして、様々な縁や共同体が解体されていく後期近代において、「疎外されている、他者にコントロールされている、無力である、将来が不安だ」という感覚になってしまうのも当然だろう。そこから逃れ、「存在論的安心」を得るために「親密な関係」を人々は求め、共同体や伝統などに回帰しようとする者もいる。しかし、それができない――都市部で現代的な生活をしていれば、それは難しいだろう。地域活動やボランティアへの参加などで代替はできると思うが――者たちは、「親密な関係」を、サードプレイスや趣味、恋愛などの中に求めていくことになる。しかし、「親密な関係」を作り出し、維持するのは、互いの意志だけによるので、たとえば学校や軍隊のように無理やり集団を作り出し一緒にいさせるような中での人間関係と比べて困難である。その能力に乏しい、または自信がないものは、「親密性の欠如」に苦しむことになる。
「存在論的不安」が高まりやすいこの現代社会を生きている多くの者の中で、「親密な関係」を作るのが不得意な者たちが陥ってしまったエアポケットのようなものへの同情や共感、そして社会的責任や制度的救済の観点が抜けているように思われるのだ(2018年に新設された「孤独担当大臣」たちがそれへの対応を行っているのかもしれないが)。重要なのは、誰であっても「存在論的安心」を感じられる社会を目指すことである。それによって、陰謀論や過激思想に傾倒したり、陰謀論者や過激派のセクトやカルト的な集団を居場所としてしまう者を減らす方向で対策するのが、即効的で目に見える数字がすぐには出ないかもしれないが、人道的で慈悲的で、社会全体のために役立つ方向である。
不信や懐疑が、マスメディアや科学のみならず、政府や政治にまで及んでいけば、昨今連発しているテロのような状態もますます増え、恒常化していく未来が、容易に予想される。戦前の日本のように、テロの応酬で内政が不安定化していくリスクも当然予測される。民の家々の竈に煙が立っているのか確かめたという仁徳天皇のエピソードが、慈悲深い統治者のモデルとして今でも機能している国である。逆にいえば、そのような徳のない統治者を統治者として認めない、という国民の気質があるということでもあろう。情けは、人の為ならずである。