汚れたマトリョーシカ:ロシアの意図の読み違えが認知戦を拡大した

認知戦、デジタル影響工作の専門家の意見や公開された論文を見る限り、アトリビューションや影響を把握することは難しく、確実な方法はないようだ。また、認知戦、デジタル影響工作の影響に関しては行動に結びついた影響についての実証研究はほとんどない。多くの調査研究あるいは専門家のレポートは、特定の主張やナラティブの拡散で留まっている。言葉を換えれば影響や効果が検証された認知戦、デジタル影響工作はほとんどなかったと言える。
そのため過去のこの領域の研究や施策は、「どんな影響があるかわからないが、ロシアがやっているんだから対処しなければいけない」、「影響は確認されていないが、なんだかやばそう」というあやふやな話しでしかないとも言える。
影響の把握ができない分、「ロシアがやっていること」の分析に磨きをかけた結果、ドッペルゲンガー、オーバーロードなど、厨二病っぽい作戦名をつけ、流行のデータサイエンスや計算社会学の手法を使って、それっぽい結果を出せるようになっていった。
防御側があれこれと分析していたのとは対照的にロシアがやっていたことは、ひらたく言うと相手国の不安定化、分断を誘うような相手国内の発言や団体の支援だけだ。並行して情報と政府への不信を醸成する。前提として、相手国はすでに不安定な状態にあり(現在の世界では多くの国が不安定で悪化しつつある)、国内の不安や不満が鬱積している状況がある。ロシアはその不安や不満を後押ししてきた。
そのためにやるべきことはたったひとつだ。不安定化、分断を誘うような相手国内の発言や団体の露出を増やす=拡散する。ご存じの方も多いと思うが、否定や批判であってもとりあげられることでそれを信じるものが増えるというウォードルの拡声のトランペットという効果がある。特に効果があるのは大手メディアや政治家などがとりあげることである。最近では、AIをLLMグルーミングすることで、AIに偽情報やナラティブを回答させる方法も使われており、これも効果がある。AIの誤答を信じて専門家に喧嘩を売る人は後を絶たない。巧拙は問わず、とにかく大量に情報を流すことと、大手メディアや政治家がとりあげさせることでこれらは達成できる。
きわめて単純なロシアの活動に比べて、欧米の専門家の対応は洗練されすぎていて、完全に読み違えた対応になっている。その齟齬をみてみよう。
① ロシア発の情報工作キャンペーン
「マトリョーシカ」 あるいは 「オペレーション・オーバーロード」とも呼ばれるロシアの情報工作キャンペーンがある。ロシア当局と結びついている業者やネットワークが主体とされ、様々な情報工作を行っている。遅くとも2023年ごろには活動が確認されている。
目的は従来のプロパガンダのように、特定の主張を信じ込ませることではない。
膨大な偽情報をばらまき「何が真実かわからない」状態を生み出すことだ。
このキャンペーンでは、欧州諸国を中心にウクライナ支援やNATOへの信頼を揺さぶる投稿が大量生成された。
大学、研究所、ファクトチェック機関のロゴを使ってウェブサイトを作成。そこに偽情報を入れ込んで拡散する。またニュースサイトも作成していた。本物のニュースサイトと同じように日々記事を更新し、その中に偽情報を紛れ込ませるのだ。
他にも著名な教授の顔写真から生成AIで動画を作成して喋らせるなど、多様な方法で偽情報を拡散させている。
Operation Overload: how pro-Russian actors flood newsrooms with fake content and seek to divert their efforts
https://checkfirst.network/operation-overload-how-pro-russian-actors-flood-newsrooms-with-fake-content-and-seek-to-divert-their-efforts/
②誤情報に誤情報を重ねてリアリティを作り上げる、巧妙な情報操作
2025年10月19日にフランスのルーヴル美術館で宝石強盗事件が起きた。建設作業員に扮した4人の窃盗犯が、電動はしごを使ってルーヴル美術館の壁をよじ登り、フランスの歴史的なコレクションから8点(約155億円相当)を盗み出したという。犯人が捕まらない中、二つの情報が流れた。
1.いくつかのウェブサイトは、犯罪現場でフランス当局が「ロシアのパスポート」を押収したと報じた。
2.SNSのユーザーなどが、あからさまに見える「ロシアのパスポート」の発見は、フランス当局が仕掛けたものではないかと声を上げて拡散されていった。
実はこれらのどちらもが、ロシア寄りとされるサイトからの発信だった。あえてロシアが疑われるような偽情報を流し、それをフランス当局の出来の悪い仕掛けだと発信することで、フランスはロシアに対して不誠実なことをしていると印象づけるのが狙いだったと思われる。
実際のところ、フランス当局は本事件に関して、ロシアの関与をほのめかすような表明はおろか、そもそも「ロシアのパスポート」が見つかったという発表さえしていない。
すべてが嘘なのだ。ロシアはなにもないところにロシアの関与する事件を生み出していた。
その後、10月29日に窃盗犯は逮捕された。
犯人の一人はアルジェリア国籍とされ、ロシアのパスポートもロシアとの関係もすべてはうやむやになり、報道されることはなかった。
https://www.newsguardrealitycheck.com/p/pro-russia-accounts-plant-double
https://jp.reuters.com/life/entertainment/3ROJNN64N5JKLCOPEJVFSAAISI-2025-10-29/
https://www.bbc.com/japanese/articles/cn51lqv40exo
ロシアはとにかくあらゆるものをネタにし、ネタがなければ捏造して情報を発信、拡散し続けている。
③「信じ込ませる」から「信じられなくさせる」へ
情報操作は技術の進化とともに形を変えてきた。冷戦期のプロパガンダは、国家が放送や新聞を通じて明確なメッセージを繰り返し流し、人々に特定の思想や価値観を刷り込む「説得型」だった。
しかしインターネットやSNSの普及により、受け手は複数の情報源を比較し、矛盾や偏向を見抜けるようになった。国家という存在が、あらゆるプロパガンダを実行するものなのだという認識が一般化したことも大きいだろう。その結果、シンプルなプロパガンダは疑われることなり効果を失った。
代わって登場したのが、情報のオーバーロードによる「情報過負荷型」の影響工作だ。
真実と虚偽を意図的に組み合わせ、情報空間をノイズで満たす手法だ。
目的は、特定の主張を信じさせることではなく、「何が本当か分からない」という不信感を人々に植え付けることにある。
前項の「マトリョーシカ」や「偽情報に偽情報を重ねる情報操作」は端的な例だ。
真実を見えなくすることで民主社会の分断を狙う。
現代の情報戦は、もはや「説得」ではなく、「混乱」を武器にする時代へと変わっているのだ。
ファクトチェック団体とメディアをターゲットにした「オペレーション・オーバーロード」のアップデート
https://inods.co.jp/topics/3912/
④「自ら撒いた毒に、自らもむしばまれるロシア」という解釈
ロシアは多数の情報操作キャンペーンを行っているとされている。ドッペルゲンガー、Pravda Network、RRN――。
だが、ロシアが展開する情報戦は、いまや外敵を惑わすよりも、自らを欺く装置へと変質しつつある。ロシアのキャンペーンについて、その実効性は極めて低く、閲覧数や反応はごくわずかで、投稿の7割以上が削除対象となり、影響はほとんど確認されなかったという指摘があるのだ。にもかかわらず、ロシアは「大きな成果」として信じ込んでいた。その事実は、ロシア当局と情報操作の請負業者の間で交わされたメールの流出、内部告発などから判明した。
ロシアからこうした作戦を請け負った業者は契約、予算を維持するため、ボットによって「いいね」や閲覧数を膨らませ、ロシア当局に「欧州世論を動かした」と報告していた。ロシア当局はその数字を実績として評価し、その成功を前提とした政策を積み重ねていった。結果、ロシアは“他者を惑わすための嘘”によって、自らも同じく嘘に歪められていったのだ。
背景にあるのは、情報戦を依頼された請負業者による予算維持を目的とした誇大報告と、それを成果として信じたかった官僚機構の構造だ。
ロシアは「自ら撒いた毒の中で、自らも中毒死しつつある」のだ、という解釈は欧米の専門家からすると、とても魅力的だ。この解釈は欧米から日本などに広がった。
https://www.isdglobal.org/digital_dispatches/operation-overloads-underwhelming-influence-and-evolving-tactics/
https://www.foreignaffairs.com/united-states/lies-russia-tells-itself
https://www.rferl.org/a/russia-ukraine-disinformation-propaganda-campaign/33123498.html
⑤ロシアはもっと単純だった
「自ら撒いた毒の中で、自らも中毒死しつつあるロシア」でこの話は終わらない。分析は続けられており、最近のものでは風向きが違う分析報告も出てきている。
ひとつはもともとロシアは暴露されることを折り込み済みだったという解釈だ。漏洩した文書を素直に読めばそういう解釈になる。冒頭に書いたように専門機関や大手メディアに取り上げられれば、それだけで目的は達成できるのだから自分で拡散するより、検知してもらってでかでかと報道してもらった方がいいに決まっている。
もうひとつは、ChatGPTなどのLLMを狙っていたという話しだ。LLMは学習の過程で主にネットの公開情報からデータを吸収する。それはロシアのキャンペーンで実施された、誰も関心を寄せない偽情報も平等に吸収してしまうことを意味する。そしてその偽情報は、我々が考える以上の量でネットワーク上に存在しているのだ。LLMの学習パターンを歪めてしまうほどに――。これらのことから、ロシアの目的はLLMにあるのではないかという分析報告も出てきている。前述の漏洩文書の中にもその記述がある。
マトリョーシカの中には、さらにもう一つのマトリョーシカが隠されていたのかもしれない。あるいはなにもないのか……
ロシアのLLMグルーミングが主要LLMを武器化する
https://inods.co.jp/topics/5505/
LLMとWikipediaまで汚染するロシアのPortal Combat
https://inods.co.jp/topics/6052/
⑥触れるだけで汚染は広がる
国家でさえ欺瞞にあえぐ汚染された情報空間の中で、私たちがやるべきは偽情報を見抜くことではない。ましてや見抜いた成果を拡散させることでもない。
それは重いコストを払って、あらゆる汚染を加速させるだけの行為だ。そもそも偽情報や誤情報そのものはなくなることはないし、なくしてはならないものだ。なぜなら科学的真実は更新されるし、社会的事実も更新される。更新される前のそれらは偽情報や誤情報あるいは陰謀論だった。偽情報や誤情報を問題として認識してしまった時点で、ロシアの罠にはまっていたと考えた方がよいだろう。
マトリューシカは、最後のマトリューシカを出した時に空になる。偽情報や誤情報も同様だ。幾層にも仰々しく拡散されるが、しょせんは空っぽでしかない。そこに労力を割いている間に、国内問題は悪化してしてゆく。その結果がどうなるかは今のアメリカを見れば分かる。
